第3話

 それにしても、だ。

 タイミング良く乗り込めたエレベーターで、『B1』のボタンを押す。資料でも不穏さが匂い立っていたが、理事長の話を聞いて余計不安になった。調査のためとはいえ、今日から少なくとも一年はそんな相手を上司と仰がねばならないのだ。

 もちろん殺された職員の無念を思えば、真実を明らかにしたい思いはある。でも簡単に解決できるような事件ではないだろうし、私の力は山の中でしか発揮されない。それに、戦うための力でもない。私の力は、山で亡くなった方を見つけるためにあるものだ。

 幼い頃に始まり、今でも年に数回は請われて日本全国の山へ行く。見つからない遺体を探し求める家族の想いは無視できない。交通費などを含めた実費のみのボランティアだが、必要な役目だと思っている。

 少しの揺れを経て止まった箱から降りると、すぐ目の前に『倉庫』のプレートが貼りつけられた鉄の扉があった。思わず見回してみたが、フロアに倉庫以外の部屋はない。倉庫脇には、古びたパイプ椅子や長机、ブルーシートが積み上げられていた。ほかには何も、階段の上から陽光がいくらか差し込んではいるが、昼間でも照明が必要なほど薄暗い空間だ。

「まさか、ここ?」

 呟き、控えめにドアノブへ手を伸ばす。ひやりとしたステンレスを捻り、重いドアを引いた。

 失礼します、と挨拶しながら覗いてすぐ、慌てて引っ込む。向こうに、槍のようなものを向けてこちらを狙う人がいた。再度控えめに覗いて確かめた槍の先からは、どす黒く禍々しい何かが炎のように立ち上り、揺らめいている。

 死ぬ。あれが当たったら、死ぬ。

「三秒待ってやるから、本性を現せ」

「本日からお世話になる稲羽です!」

「……稲羽? 氷雪山の稲羽か」

「そうです、氷雪山の神、九多くだなにがしの娘です!」

 まさか、こんな必死になって身元を明かす日が来るとは思わなかった。忌まわしさと呪いしかない出自を、自ら告げる日が来るとは。

 おそらく真方であろう男性は、そうか、と短く答えて槍の先を下げる。しゃらん、と音を立てた輪の重なりに、錫杖だと気づいた。

「悪いな。この辺じゃ滅多に感じねえ霊力だったから、カチコミかと思ったわ」

 何の、とは聞かない方がいいのだろう。真方が錫杖を軽く振ると、あのどす黒い何かは一瞬で霧散した。ようやく脱せたらしい修羅場に、胸を押さえて息を吐く。この人が、真方倭か。

 心許ない照明の下、真方は傍らの書棚へ錫杖を立てかける。細身のスーツに襟の高いシャツ、ネクタイもきちんと締められて格好だけは紳士然としたものだ。ただ、素行の実態と口の悪さを知るのに時間は掛からなかった。

「あの、何か」

 窺う視線に気づき、思わずびくりとする。

「いや。で、九多真塩ましおの娘がこんなとこになんの用だ」

 あっさりと父のいみなを口にし、スーツを整えた真方はデスクへ戻る。祟り神である父の諱は、一族の人間でも普段は呼ばない。そもそも一般人には秘されているものだ。口にすれば祟られる、はさすがに迷信だろうが、御霊ごりょう信仰の一貫として深く信じられている。何せ、怨霊を神と奉ることで災いを逃れようとするベクトルの信仰だ。

「改めまして、県農林水産部林業課より派遣されました稲羽玉依です。本日より一年間、お世話になります」

「聞いてねえぞ」

 真方は舌打ちし、椅子に凭れて腕を組む。確かに、見る限りデスクは一つだけ、応接セットすらない。倉庫内に無理やりスペースを作ったのか、背後には押し込まれたスチール棚やダンボールの山があった。ひんやりとした室内に漂う臭いは埃と、煙草か。

「派遣理由は、あなたの素行と機備課存続に関する調査です。前もって話したら、私を殺しそうで心配だったのでは?」

「祟り神の娘を呪い殺すほどバカじゃねえよ」

 隅からパイプ椅子を引っ張り出す私に、真方は薄い唇の片端を引き上げて皮肉っぽく笑う。光の足りない中で見るせいか、退廃的な雰囲気が漂っている。顎の尖った小さな顔は彫りの浅い上品な造りで、目鼻立ちは涼やかだ。オールバックの七三は短めで、すっきりと出された額が清々しい。好みはあるだろうが、黙っていればイケメンと評されそうな顔立ちだった。

「さっき錫杖の先で揺らめいてたどす黒いあれが、呪いですか?」

 尋ねた私に、真方は少し意外そうな表情を浮かべた。

「分かってなかったのか。呪詛だよ。ぶっ刺したら一瞬で体中に拡がって、お前以外なら、まあ死ぬわな」

「私も物理的には死にますけどね」

 呪詛で死ななくても普通に死ぬ。「たまに」常軌を逸する、か。

「真方さんは、呪詛使いなんですか?」

「別に専門で扱ってるわけじゃねえ。呪詛は自分にも少なからず返しが来るからな」

 真方は煙草を手に取り、一本引き抜いて火をつける。少し目を細めて最初の煙を吐き出したあと、私を見た。なんとも言えない色気に、無意味に指先をさすりあわせてみる。

「で、呪詛も分からねえお前は何ができるんだ。さすがに俺に根掘り葉掘り聞くだけで一年過ごすつもりじゃねえよな?」

 投げ返された質問には、頭を下げるしかない。私は今更だが呪詛を使う能力も、錫杖にまとわせる技術も持ち合わせていないのだ。

「すみません。真方さんのように働けたら良かったんですが、私が派遣されたのはほかの人よりあなたの話が理解できるからなんです。私自身の力は山でしか発揮されないので、山を下りたらまるで役に立ちません。霊すら見えません。山で発揮される力も、遺体を見つける探査能力だけですし」

「親父が封じてんのか」

「どうでしょうね。知りませんし、父の考えなんてどうでもいいです」

「嫌われてんなあ、反抗期か」

 真方は短く笑いを刻み、指先で弾いた煙草を咥えた。


 父は皇別氏族九多氏の一人で、何らかの理由により朝廷を追われてこの地に辿り着き、朝廷を恨みながら憤死したと言われている。程なく疫病と飢饉に襲われた住民が祟りと恐れ、父の亡骸を山へ移し祀ったのが信仰の始まりだ。女性が多い山の神にあって氷雪山が男性なのも、この由来によるらしい。

「祖父の話だと、父は母が幼い頃から気に入ってたそうです。母が山を歩けば花が咲き山の幸が降って川の魚が跳ねて出る状況だったらしくて」

「ロリコンにも程があるな」

 単純計算した年の差は、千四百五十歳ほどだろうか。父の生年は不詳、没年に関しても「西暦五百年頃」としか分かっていない。そもそも、我が家に資料があるから実在したことになっているような人物だ。

「これは嫁取りになるんじゃないかって話してたら案の定、母が年頃になったら部屋へ降りてくるようになったそうで。母は当時付き合ってた人と別れて、山へ嫁ぎました」

 最後の内容だけは祖父ではなく、信者のおばさんに聞いた。「町を祟りから守るために」なんて美談のようにまとめていたが、吐き気しかしない異類婚姻譚だ。

 神との婚姻や出産が認められない(認められるわけがない)現代では、当然ながら私の戸籍に父の名前はない。母も山へ入ったあとは、産まれた私を伯父へ渡す時に姿を見せたきりだ。社会的には失踪宣告による死亡扱いで、私は伯父に育てられた。もちろんその申立は私が煩雑な手続きに悩まされないためではあったが、複雑だったのは確かだ。おかげで私と母は、一部の信者を除いては「訳あり男との間に産まれたかわいそうな子」と「子供を捨てて蒸発した無責任な母親」の扱いを受けている。子供の頃には「二人とも山にいる」と言い返したこともあったが、一層バカにされるか不憫な眼差しを向けられて終わりだった。

「で、稲羽本家にめでたく御祭神の血を引くサラブレッドが降り立ったってわけだな」

 真方は煙を長く吐き出し、私を眺めた。父の諱まで知っているくらいだ。家はもちろん、私も存在くらいは知られていたのだろう。

 稲羽の家は市の境を南東へ越えた、人口六千人ほどの解部町ときべまちにある。本家は代々氷雪山とその依代である神籬ひもろぎの大岩を祀る役目を持ち、平安時代の文献にも登場している。今や何代目か、八年前に祖父が死んでからは伯父が跡を継いでいた。

 伯父は今年で五十八歳になるが、若い頃に離婚して以来独身だ。縁がないのは多分、私のせいだろう。町役場で着実に出世を重ねて今や総務部長だし、見た目だって悪くはない。でも「失踪した妹が未婚で産んだ子を育てている」と聞けば、余程の事情でもない限り遠慮したくなるだろう。しかも母親である祖母は。

「私は一歳くらいで山から降ろされて、以降は母が産んだ婚外子として伯父に育てられました。いろいろと、嫌うだけの理由はあるんです」

 知らず寄っていた眉間をさすり上げ、溜め息をつく。向かいから、鼻で笑う音がした。

「そんだけ霊力が有り余ってても、使えなけりゃ足手まといだな。なら事務処理してくれ。とりあえず、机と椅子出すか」

 真方は煙草をにじり消して腰を上げ、奥に分け入り私のデスクを探し始める。もっと抵抗されるかと思っていたのに、拍子抜けするほどあっさりと受け入れられてしまった。

「あの、良かったんですか」

「来ちまったもんはしゃあねえだろ。追い返したらまたねちねち言われるだろうし。おい、客じゃねえんだから手伝え」

「はい」

 バッグを置いて腰を上げ、私も奥へ向かう。

「あと、遺体探しのお役目が入った時と毎月一日にある御霊会ごりょうえの時は有給取ります、すみません」

「マジかよ。ま、俺も修行の時は一週間以上いねえけどな」

 奥では、所狭しと詰め込まれたものから舞い上がった埃が朧な光にちらちらと光っていた。

「こういった掃除の行き届いていない状態は、僧侶として大丈夫なんですか?」

「ここは寺じゃねえからな。汚くしてたって追い出されるわけでも給料減らされるわけでもねえのに面倒だろ。寺がきれいなのは『教えに忠実な僧侶』って檀家の理想を叶えてるだけだ。ビジネスだよ、ビジネス坊主」

 真方は答え、見つけたデスクの上から荷物を下ろす。舞い上がった埃を厭わしげに扇いだ。

「そういうもの、なんですか」

「そうだ。ちなみに俺がここで働いてんのも金のためだ。給料以上働く気はねえから、期待すんなよ」

 それが信条なら、例の仕事は相容れない気がする。新田との仕事だけは例外なのだろうか。とにかく、今は情報収集だ。

 思案しながら手を動かす背後で、電話が鳴り始める。真方の舌打ちが聞こえた。不機嫌が分かりやすい。

「ちょっと出てくれ。機備課て言やいい」

「分かりました」

 持ち上げていたダンボールを脇へ積み直し、電話へ向かう。言われたとおり機備課で受けた相手は、新田だった。

 新田は抑揚の少ない声で卒なく挨拶を済ませたあと、真方と一緒に上がってくるよう伝えて電話を切る。早速だけど仕事がある、と言った。

「真方さん、新田さんから呼び出しです。一緒に上がってくるようにと」

「仕事か」

 一瞬鋭くなった視線に頷くと、真方は手を払って溜め息をつく。

「年度始まって早々仕事かよ。さすが祟り神の娘は持ってんな」

「給料分はきっちり働けってことですよ」

「この仕事は季節に一回でいいんだよ」

 苦笑した私を鼻で笑い、辺りをぐるりと見回してから出てくる。

「不法投棄の事件は、直近のものだったんですか?」

「去年の秋だ。市に寄付された山の整備に組合員が入ったら、テレビや冷蔵庫が降ってきたらしくてな」

「ちなみに、どこの山ですか?」

「特に名前もねえ、市街地山林だよ。数年前から不法投棄のポイントになってたらしい。相続ん時に手放されたんだが、市の方もちょうど欲しい場所でな」

 真方はデスクに置いたウェットティッシュで手を拭い、スーツの前を払う。近くで見た手は程よく日に焼けて、細長い指は節くれだっていた。あちこちに細かく走る傷跡もある。ビジネス坊主には似合わない、実直そうな手だった。

「なんだ」

「いえ、なんでも」

 小さく笑い、真方に先駆けてドアへ向かう。

「ま、それで呼ばれて調査に入ったら、でけえ猿のばけもんが出てきたんだよ」

「主ですか?」

「いや、若え下っ端だ。そいつが不法投棄業者を殺すから連れてこいって言ってな。俺はそれで良かったけど、新田のオヤジが『死人は出すな』てうるせえんだよ。仕方ねえから、殺さず済ますんなら連れてきてゴミの始末もしてやるって交渉した」

 山には神のいる山と主のいる山、そのどちらもいない山がある。どちらもいない山も、最初からいないわけではない。管理の放棄や開発による環境の崩壊などにより、棲めなくなってしまうのだ。最後まで抵抗を見せる神や主も中にはいるが、大抵は戒め程度で終わる。最後は静かに、身を引くように消えてしまう。山は、人の子にとって親のようなものだ。

「不法投棄の物品から気を辿ってったら、予想どおり『産廃を処理せず捨てる系』の産廃業者だった。県外にある筋もんのフロント企業だ」

 真方は不穏な流れを口にし、私の開けたドアから先に出る。

「暴対に流しても良かったけど面倒だから、直接交渉に行ったんだよ。トップは大体、こういう末端の不始末を知らねえからな」

「ヤクザと交渉したんですか」

「別にいいだろ、俺は公務員じゃねえし」

 うるさそうに答えながら、開いたエレベーターにも先に乗る。確かに公益社団法人は公益性の高い事業を行う非営利団体ではあるものの、民間組織だ。ヤクザとの関わりは歓迎されるものではないだろうが、公務員である私の比にはならない。

「トップは留守だったけど若頭には会えたから、始末つけてえから寄越せやって」

「そんなので、大丈夫だったんですか?」

 ボタンを押して振り向いた先で、真方は少し目を細めて不敵な笑みを浮かべる。倉庫よりは明るい光が、髪と瞳の色を透かす。瞳は薄茶に少しグレーがかったような、曖昧な色味だった。

「猿のばけもんがテレビや冷蔵庫投げて仕事が進まねえって言ったら、笑いながら二つ返事で了承してくれたわ。もちろん暴対には流さねえって約束でな。二日後に、青い顔したオッサンがここに来た。助けてくれって泣かれたけど、知ったこっちゃねえしな。山頂で蹴転がして、先に山を下りてやった。数年に渡る不法投棄が三日の山ごもりで許されたんだから、優しいもんだろ」

 それは、業者の精神を壊すのに三日しか掛からなかったからだろう。

「主は、そのばけもん猿の母親でな。不法投棄のせいでだいぶ弱ってた。この一件が片付いたとこで次は開発が待ってるって分かってただろうけど、それでも感謝されたし無関係な人間を攻撃した我が子の所業を詫びられた。人間より余程筋が通ってるし、心があるわ」

 皮肉っぽく継がれた話の最後に引っ掛かり、大きめに結ばれたネクタイのノットから視線を上げる。真方はすぐに気づいて、薄く笑った。

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