四月:悪い子ではないんだよ
第2話
林業公社の設立は昭和四十二年、名に「林業」と掲げているとおり県内の林業振興を目指し、造林や管理、雇用改善などを行っている公益社団法人だ。理事の名簿には私に内偵を指示した農林水産部長のほか、市長や私の生まれ育った町の町長も名を連ねている。
社屋は県庁から車で東へ十分ほど、県東部事務所からほど近い場所にある地上三階地下一階のビルだ。私が派遣された機備課、つまり鬼魅課は地下一階にあるらしい。もう既に、扱いが怪しい。
門柱にはめ込まれた『林業公社』のプレートを確かめ、駐車場へ入った。
今日は最初に理事長室へ挨拶に行ってから、地下へ下りることになっている。私がここへ派遣された建前の理由は「不法投棄事件を受けての実態調査」だから、理事長にもそれに沿った挨拶をしなければならない。本当の理由は、理事長にも秘密だ。任期はひとまず一年とされているが、あの知事のことだ。明らかになるまで本庁への帰還はないかもしれない。
「よし、行くか」
ルームミラーで前髪を整え、小さく気合を入れ直す。スーツの前を払い、バッグを掴んで車から降りた。
理事長室は三階、古びたエレベーターの階数表示に『B1』はあったが『倉庫』としか説明がなかった。ほかの階にはちゃんと課の名前が書かれているのに、機備課だけないのは意図的だろう。今更だが、私はどんなところで働くのか。不安しかない。
今日の予定を胸の内で反芻し、薄暗いリノリウムの廊下を奥へと進む。深呼吸を一つしたあと、突き当たりのドアをノックした。中から応える声に、ゆっくりとドアを開く。
「ようこそ、おつかれさま。どうぞ座って」
理事長はデスクから腰を上げて私を迎え入れ、私が名乗るより早く応接セットのソファを勧める。
「あの、県農林水産部林業課より参りました、稲羽
乱された段取りに慌てて名乗り、頭を下げた。
「うん。稲羽さんね、聞いてるよ。さあ、座って」
理事長は三人掛けの真ん中に腰を下ろし、まるで孫を呼ぶかのように手招きする。思わず苦笑したが、ありがたくはある。棘のある対応をされてもおかしくはない派遣理由だ。好々爺と呼ぶには若い、人懐こい笑みに気持ちが和む。会釈をして、向かいのソファへ腰を下ろした。
「僕はここの理事長をしてる、
「改めまして、稲羽です。林業課には入庁以来三年勤めまして、今回が初めての異動です」
「若いねえ」
理事長は笑顔で返し、細かく頷く。部長の資料によると理事長の境井
教授から理事長ならそれなりの収入を得ているはずだが、スーツは部長のものと比べ物にならないほど薄っぺらく安っぽい。ここ数年で痩せたのか、肩の辺りが浮いていた。服装に構わないざっくばらんな人でも、六十を超えて就いた新しい仕事にはそれなりの苦労があるのかもしれない。えらの張った四角い顔は筋張っていたが、笑顔のせいで朗らかな印象だ。
「早速ですが、私の派遣理由についてはご了承いただけますでしょうか」
「うん、不法投棄の件だよね。真方くんの適性と機備課存続に関する調査だと聞いてる」
理事長はあっさりと受け入れて頷き、膝の上で痩せた手を組む。口を開きかけた時、携帯の呼び出し音が鳴り響いた。
「ごめん、切るよ」
理事長は慌ててポケットから携帯を取り出し、少し目を細めて表示を確かめたあと着信を断つ。そのままテーブルへ置かれた携帯の待受は、犬の写真だった。
「犬を飼ってらっしゃるんですか」
思わず尋ねてしまった私に、理事長は一瞬面食らった表情を浮かべる。しかしすぐに、愛犬家らしい笑みに変わった。
「うん、ゴールデンレトリバーをね。ハナって女の子で、かわいいよ」
嬉々として向けられた画面には黒々とした丸い目の、人懐こそうな表情がある。心を鷲掴みされるかわいらしさだ。仕事で疲れた自分を、こんな子が迎えてくれたらどんなにいいだろう。
「かわいいですね。私も犬が好きなんです。いつか飼いたいと思ってるんですけど、一人暮らしだと余裕がなくて」
家事と仕事だけで精一杯で、これ以上何かを増やせる余裕がない。仕事に慣れたらと思っていたが、慣れた途端にこの異動だ。私がペットと優雅に暮らせる日はいつになるのか。
「いいよー犬は。日々の癒やしだよ。もし飼いたくなったら相談に乗るから、いつでもおいで」
「ありがとうございます。すみません、話を脱線させてしまって」
空気はさっきより和やかになったものの、褒められることではない。相手が良かったことを感謝しなければ。理事長は、いやいや、と手を扇ぐように振って携帯をポケットへ戻した。
「真方くんは、とても優秀な人材だ。彼のおかげでこれまでなら怯えながら断行せざるを得なかったような工事を、作業員の安全を守りながらできるようになった。それは本当にありがたいことだと思ってる。ただね」
流れるように手柄を語っていた口が、途端に鈍くなる。私から視線を外し、小さく溜め息をついた。
「目的のためには手段を選ばないっていうのかな。やり方がたまに常軌を逸してしまう時があるというか、若干人を人と思わないような節があるというか」
どんどん悪化していく表現に慌てる。ある程度覚悟していたとはいえ、そんな人の下で働くのか。
「仕事はできるけど人間性に問題がある、ということですか」
「いや、誤解されやすいとこはあるけど、悪い子ではないんだよ。お坊さんだしね」
三十二歳を捕まえて今更「良い子」「悪い子」もないが、理事長は冗談を言っているようではない。「お坊さん」も事実だ。
部長から渡された資料を思わず二度見したが、真方の情報には確かに『静隠寺 副住職』とあった。「僧侶が殺人」は受け入れがたいものの、どうも私の考える僧侶像とはかなりかけ離れているようだから、ありえるのかもしれない。
「専務理事の新田さんがスカウトした、とお伺いしていますが」
「うん。新田くんは、真方くんとこの檀家さんらしいよ。大学を出て本山に五年、だったかな。修業を終えて帰って来たとこを誘ったんだって」
元々面識があって真方の力についても知っていた、ということか。気心の知れた仲なら、共犯関係は築きやすいだろう。やはり新田真方ラインが濃厚か。
資料には、部長室では伏された死因も書かれていた。体中の骨が折られた状態で、ごみバケツに詰め込まれていたらしい。確かに、人間には無理な殺し方だ。方法も、残酷さも。
「それで、一つ注意して欲しいことなんだけど」
神妙な声で切り出した理事長に頷き、意識を向け直す。理事長は少し目を細めたあと、表情から笑みを消した。
「鬼魅課には、表向きは機械備品課として活動してもらってる。現場の調査なんかにもそういった名目で出掛けてもらってるしね。要は、現場もここの職員もみんな機備課の本当の職務を知ってるけど、知らないふりをしてるってこと。『暗黙の了解』なんだ」
ああ、と納得して頷く。私が林業課にいながら真方の所業について一度も聞いたことがなかったのは、そういった理由からなのだろう。
「君のご実家には伝えてもらってもいいよ。ただ、友達や周囲と話をする時には気をつけてね」
「承知しました。気をつけます」
「ご実家」か。私の知らないところでどんなやりとりが繰り広げられていたのか、あまりいい気はしないが仕方ない。部長が理事長から真方や新田の資料を受け取ったように、理事長は部長から私の資料を受け取ったはずだ。疑われず公社へ入り込むには、必要なことだろう。
「一年間、お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくね。新田くんは不在だけど、また戻ってきたら連絡するから」
「ありがとうございます」
腰を上げた私に理事長も続いて、ドアへ向かう。私より先にドアノブを掴んで開いた理事長に苦笑した。トップなのに、こっちが不安になるほど腰が低い。では、と挨拶を交わして理事長室を出る。一息ついて、薄暗い廊下をエレベーターホールへ向かった。
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