僕の彼女は半袖を着ない
惣山沙樹
僕の彼女は半袖を着ない
自宅のドアを開けるなり、
「お帰り、
夢香のシトラスの香水の匂いが、ふわりと僕の鼻をくすぐった。いいものだ。帰りを待ってくれている人が居るということは。
「今夜はパスタだよ。ソースはもうできてるから、パスタをレンチンしてかけるだけ」
「パスタって、電子レンジでもできるのか?」
「そうだよ。ささっ、まずは着替えなよ」
僕はコートを脱いでクローゼットにかけ、ニットを脱いでスウェット姿になった。夢香は黒いパーカーに黒いショートパンツという姿だ。白い素足を晒しており、僕はそれに手を伸ばしたくなった。あの感触をまた味わいたい。
「夢香」
キッチンに立つ夢香の背後から僕は近付き、つうっとお尻から太ももを撫でた。
「もう、章太ったらくすぐったいよ」
振り返った夢香ははにかんだ。フライパンの中身を見ると、トマトがベースのソースが出来上がっていた。いい香りだ。さすが夢香、僕の好みをよく知っている。
「レンジ使うから、ちょっとどいて」
「はぁい」
僕と夢香が出会ったのは、大学のサークルだ。いつも明るく、人を惹き付ける元気のある彼女に、僕はすぐに惚れた。入学して間もない五月には、彼女に告白し、彼氏の座を手に入れた。それから一年半以上が過ぎ、僕たちの絆は確固たるものになっていた。
「こうやって、タッパーに水を張って、長めにレンチンするといいんだよ」
「そうなんだ」
しばらくして、出来上がったパスタをローテーブルに置き、ソファに座ってそれを食べた。
「うん、美味いな! 最高だよ夢香」
「やったぁ」
夢香は長い黒髪を耳にかけ、上品な動作でパスタを口に運んだ。ソースを顔につけることなんてない。僕はというと、フォークを使うのが下手で、かきこむようになってしまう。
「お箸持ってこようか? そっちの方が食べやすいかも」
「うん、そうして」
勝手知ったる僕の部屋。夢香はキッチンから箸を持ってきて僕に差し出した。
「ありがとう」
僕は箸で残りのパスタを食べ終えると、食器をキッチンに持って行った。
「洗い物ならあたしがやるよ。章太はゆっくりしてて」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
スマホでゲームをしながら、僕は夢香を待った。さて、今日は、言うべきことを言わなければならない。キッチンから戻ってきた夢香が、隣に腰かけてきたので、僕は思い切って切り出した。
「なあ、夢香。そろそろ三日になるだろ? 一度帰らないか? ご両親も心配してるだろうに……」
その途端、夢香は立ち上がって僕を見下ろし、キッと睨みつけてきた。
「あたしのことが邪魔なんだったら、そう言えばいいじゃない!」
「違うよ。僕は心配しているんだ。邪魔なわけじゃない」
「でも、追い出そうとしてる!」
「そういうことじゃない」
ああ、まただ。スイッチが入った夢香はいつもこうなる。僕が言葉を間違える度、夢香は声を荒げる。そうならないように、慎重になっても、僕から離れさせようとするとたちまちこうだ。
「落ち着け、夢香。まだ帰りたくないんだな?」
「……うん。あたし、章太とずっと一緒に居たい。一生一緒に居たい」
僕は夢香を座らせ、ポンポンと頭を撫でた。それから、サラサラの彼女の髪を指にくぐらせ、弄んだ。
「僕もだよ。僕も、夢香と一生一緒に居たい」
帰らせるのは無理そうだな。僕は観念した。しかし、本当に大丈夫なのだろうか。夢香は大学の講義には行っているようなのだが、僕の家に入り浸りすぎている。彼女が居てくれるのは僕にとって嬉しいことなのだが、それじゃあ彼女のためにならない気がする。
結局、僕たちは一緒に風呂に入った。華奢な夢香の身体を洗うのは楽しい。胸に多めに泡を盛ると、僕はそれを揉みしだいた。彼女は腰をくねらせた。丹念に石鹸を洗い流した後、僕は髪をタオルで拭きながら、電子タバコを吸った。夢香のために買ったドライヤーで、彼女は髪を乾かしていた。
「ねえ、愛してるよ、章太」
夢香の長い髪がふわりと揺れて、僕の頬をくすぐり、キスをされた。僕は彼女の唇を舌でこじ開け、口内を虐め尽くした。そういうねちっこいキスが彼女の好みだった。すっかり息切れしてしまうまで、それを続けた。
「僕も愛してる、夢香」
そして、ベッドに夢香を押し倒し、股間に指を滑らせた。すっかり湿りきった彼女の身体は、敏感に反応した。長い長い愛撫の果て、僕は避妊具を取り付け、彼女を突き刺した。大きな声が漏れた。隣の家のことなんて、知ったこっちゃない。僕たちは全力で愛し合った。
僕はティッシュで後処理をして、くったりと横たわる夢香の髪を撫でた。今夜も彼女を帰せなかったが、これでいいのだ。一緒に眠りにつける幸せ。この手で触れられる幸せ。それを大事にしようと思った。
明日の講義は午後からだ。僕はアラームをかけないことにした。
ふと、目が覚めた。カーテンから差し込む光からすると、まだ夜が明けたばかりだろう。僕は隣に夢香が居ないのに気付いた。洗面所から明かりが漏れていた。まさか。僕は起き上がってそちらへ行った。
「……章太」
カッターナイフを持った夢香が、洗面所にへたりこんでいた。もう遅かった。
「夢香。大丈夫だから」
僕は夢香の手からカッターナイフを奪い取った。キリ、キリリ。刃をしまった。それから、ズタズタに切られた彼女の左手首を優しく舐めた。鉄の味がした。
「今度はどうしたの?」
「目が覚めて、章太の顔見てたら、消えたくなった」
「それで?」
「このまま朝が来なければいいのにって思った」
「でも、朝は来るんだよ」
夢香をきつく抱き締めると、彼女はわんわん泣き出した。これが夢香。僕の夢香。他の誰も知らない本当の姿。いつも愛想よく笑顔を振りまかれている大学の奴らは信じないだろう。彼女はこんなにも泣き虫なのだ。
「可愛い夢香。僕がここに居るから、大丈夫だよ」
「そうだよね。大丈夫だよね」
やはりそろそろ、家へ帰そう。しかし、言うタイミングは今じゃない。僕は夢香の背中をさすり、泣き止むまでそうしていた。
「コーヒーでも飲もうか」
けろっとした笑顔を見せた夢香は、立ち上がってキッチンへと行った。二杯のドリップコーヒーを彼女は作ってくれた。
「夢香、講義無いの?」
「二限目から。だから、まだ大丈夫だよ」
コーヒーを飲みながら、僕は電子タバコを吸うことにした。途中で夢香にそれをひったくられ、一口吸われた。タバコには歯形がついていた。いつものことだ。彼女はストローも噛む癖がある。それすらも、僕にとっては愛おしかった。
先に夢香を大学へ見送った後、僕は掃除機をかけ、昼食には冷凍のチャーハンを食べた。それから講義に出ると、同級生たちにからかわれた。
「なあ、お前んとこの彼女、すっかり同棲状態だって?」
「ああ、そうなんだ。なかなか帰ってくれなくてさ」
「いいなあ、夢香ちゃん、美人だし明るいし。家事はできるのか?」
「もちろん。昨日もパスタをご馳走になったよ」
僕と夢香の仲はすっかり公認だった。校内でばったり会ったとき、旦那が来たぞなんてもてはやされることもあった。僕は彼女との結婚も考えていた。大学を卒業したら、すぐに婚約指輪を渡そうとも思っていた。
さて、今日も帰ったら夢香が居るのだろう。僕は校内の喫煙所で紙タバコを吸った。今度こそ、家に帰さなくてはいけない。どう言うのが正解だろうか。また激高しないだろうか。そればかりを考えながら、紫煙をくゆらせた。
「ただいま」
帰宅すると、夢香は玄関に出てこなかった。ワンルームに続く扉を開けると、彼女はベッドに居て、ブランケットにくるまっていた。
「……お帰り」
夢香は身を起こさず、そのまま寝転んでいた。僕はベッドのふちに腰かけた。
「どうしたの」
「自信、なくなってきた」
ぽつり、ぽつりと夢香は話し出した。
「あたしなんかが章太の彼女でいいのかなって。あたしなんか、章太の彼女にふさわしくないなって」
僕は夢香の形の良い顎をさすった。それから頬、耳へと指を滑らせた。なおも彼女は語り続けた。
「こんな女、もう嫌でしょ。しんどいでしょ。ねえ、始まったらいつか終わりが来るんだよ。明けない夜が無いみたいに」
「そうだな。でも、僕たちの関係は終わらないから」
本当は僕だってしんどかった。できることなら、いつもの明るい夢香のままで居て欲しかった。けれど、それは過ぎた願いだ。本当に彼女自身を愛するのなら、ありのままの彼女を受け止めるしかない。
「終わるよきっと。あたしたちって、ただの彼氏と彼女でしょ。役所に届け出たわけでもない。いつだって離れられる関係なんだよ。ねえ、章太。別れよう?」
「何言ってるんだよ夢香。僕は別れないよ」
夢香は証拠が欲しいのかもしれない。僕は軽くキスをした。しかし、彼女の顔は暗く沈んだままだった。今夜も帰すのは無理だな。そう悟った僕は、また彼女を泊めることにした。
明くる日、僕が先に目を覚ました。すうすうと安らかな寝息をたてている夢香を見て、昨夜のことを思い出した。行為中、僕は初めて彼女の首を締めたのだ。彼女はうっとりと目を閉じ、恍惚としていた。それが正しかったのだと思わされる表情だった。
寝転びながら、くるんと巻いた夢香のまつ毛を見ているうちに、僕は胸の奥から重苦しい物がせり上がってくるような感覚に襲われた。苦しい。これは何だろう。身を起こして、僕はキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して飲んだ。それでも胸のつかえはおりなかった。
「そっか。ははっ、そうすれば良かったんだ」
僕は独り言を言い、パソコンデスクに置かれていたカッターナイフを手に取った。キリ、キリリ。冷たい刃が顔を出した。それからは、不思議と痛みは無かった。幾重にも赤い線が僕の左腕に浮かび上がった。
「あははっ」
笑い声が漏れた。そうだ、僕は正しいことをしているんだ。笑わずにいられようか。これは正しいことなんだ。夢香のためなんだ。線はどんどん増えて行った。
「……なに、してるの」
いつの間にか、夢香が起きてきていた。僕はぱあっと目を輝かせ、左腕を見せた。血が滴り、パソコンデスクの上に落ちた。
「バッカじゃないの!? 章太、あんたなにやってんの!?」
僕は戸惑った。喜んでくれるとばかり思っていたのに。夢香はこういうことを望んでいたんじゃないのか。
「このメンヘラ男! もう要らない! 帰る!」
「ま、待って」
夢香の腕を無理やり掴み、僕は彼女を引き留めた。涙が流れていた。僕も、彼女も。
「ごめん。ごめんな夢香。僕、間違えたんだな。それは謝る。だから要らないなんて言わないで。僕、夢香と居たい。ずっと一緒に居たい」
僕の嗚咽が静かな部屋を満たした。しばらく顔はあげられなかった。僕は夢香に抱きすくめられ、彼女の体温に沈んだ。
「……章太。要らないなんて言ってごめんね。あたしも章太と一緒に居たい。だから、もう二度としないで。ねっ?」
僕は夢香の顔を見た。涙でぐちゃぐちゃになり、口角はいびつに上がっていた。僕は右手のスウェットの袖でごしごしと顔を拭いた。
「うん、もうしない。だから、一生一緒に居て?」
「わかってる。あたしと章太は一生一緒だよ」
ありがとう、夢香。こんな僕と一緒に居てくれて。これが僕の彼女。何よりも大切な、僕の彼女。僕だけのもの。そして僕も、彼女だけのもの。
「章太、愛してるよ」
「うん、僕も」
僕たちは、長いキスをした。この先、僕たちを断ち切るものは何も無い。流した血と涙の分だけ、僕たちの絆は固くなった。もう離さない、夢香。
僕の彼女は半袖を着ない 惣山沙樹 @saki-souyama
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