十七話
ジェロームの予想通り、それから二週間後、ディクソン達の訴えに応えた王宮からの役人によって、ジェロームは連行されて行った。そしてその後日には、疑惑を証明できるものを捜すため、館内のすべての部屋を調べられ、書物から生活用品まで様々な物が持ち去られていった。さらに寂しくなった館内ではあったが、生活をするには特に問題はなく、こうしてシシリーは一人の暮らしを余儀なくされた。
収入を得るため町で雑用の仕事をしながら、シシリーはいつ戻るかもわからないジェロームを待ち続けた。寒風に枯れ葉が舞い落ち、その枝に小さな新芽が付き、春風と共に花を咲かせ、天に向かって伸びると、色あせた葉は再び舞い落ちる……景色は繰り返されたが、ジェロームは一向に戻らなかった。一年が過ぎ、半年が過ぎ……そんな繰り返す時間をもう一度過ごそうとしていた、暖かな春の日だった。
晴れた休日、庭の植木の手入れをするシシリーは、この陽気で咲いた小さな青い花に顔を近付け、香りを楽しんだ。
「……いい香り」
広い庭のあちこちには、いろいろな種類の花が咲いているのが見える。元から植わっていたものや、シシリーが新たに植えたものなど、数は多い。雑草だらけの景観から花の咲く庭に変わったのは、すべてシシリーの努力の賜物だった。荒れたままにはしておけなかったというのもあるが、何よりも、ジェロームが戻った時に喜んでもらいたかったという思いが強い。庭いっぱいに咲かせるまでにはまだ至っていないが、順調に育ってくれれば来年の春はもっと多くの花が見られることだろう。
別の植木の手入れをしようとシシリーは踵を返した。だがその時、庭の先に春には似つかわしくない外套を着た人影を見つけ、足を止めた。直後、シシリーの鼓動は激しい音を鳴らし始めた。力の抜けた手からはスコップが落ち、視線は人影に釘付けになった。
外套姿の人影はゆっくりとシシリーに近付いて来る。姿が鮮明になるにつれ、その顔もはっきりと見えてきた。黒い髪は大分伸び、頬や首にかかるほどになって、一見すると別人のようでもあったが、それでも顔を見れば見間違えようもなく、待ち焦がれていた夫――ジェロームだと瞬時にわかった。
感極まるのをこらえながら見つめるシシリーの前まで来ると、ジェロームは見開いた目で聞いた。
「……ずっと、私を待っていてくれたのか?」
声に弱ったところはなく、しっかりと発した言葉にシシリーは笑みをこぼした。
「お帰りなさい、ジェローム」
「一年以上も経って、もう村へ帰っているものと……」
「そんなわけありません。この時をずっと待ってたんですから。……さあ、ただいまと言ってください」
「こんな私の側に、まだいてくれるのか……?」
自信なさげな言葉にシシリーは笑う。
「それは愚問ですよ。私がここにいることが答えなんですから」
シシリーの明るい声につられるようにジェロームはわずかに微笑むと、その顔を見つめた。
「……ただいま」
「お帰りなさい……ずっとずっと、待ってました」
どちらからともなく、二人は互いを強く抱き締め合った。二度と離れはしないと確かめるかのように、長く、静かに、喜びを噛み締め合う。
「……本当にすまなかった。こんなに待たせてしまって」
身を離すと、ジェロームは表情を暗くし、謝った。
「謝らないでください。大変だったのはジェロームのほうなんですから。私にはやることがたくさんありましたから、むしろ余計なことを考えずにいられました」
働けたことは、シシリーにとっては思い詰めずに済んだいい時間でもあった。仕事に没頭することで、ジェロームへの心配や不安を考える暇を作らず、日々を前向きに過ごすことができていた。他にも庭の手入れや館内の掃除も同様だ。ジェロームが戻った時のために、今できることを地道に行ったおかげで、負の感情に襲われず、悲観的にならずに済んでいた。
「だが、一人では辛いこともあっただろう」
これにシシリーは苦笑いを浮かべた。
「ないと言ったら嘘ですけど……でも、ジェロームを思えば大したことはありません」
前向きな気持ちで過ごしていたシシリーでも、唯一辛かったのは周囲からの声だった。ジェロームが王宮へ連行されたことはすぐに人々に伝わり、広まっていった。未だに館での事件の犯人だと思い込んでいる者達からは、もう帰って来てほしくないとか、そのまま牢に入れてほしいなど、連行されたことを喜ぶ声が多く上がっていた。ジェロームへの罵りはシシリーの心をひどく痛ませた。この領地が呪われないよう葛藤しながら頑張ったというのに、それを知らずに非難する人々には悔しさも感じた。シシリーが領主の妻だと知る者からは心配され、励まされたりもしたが、極一部には領主の身内というだけで毛嫌いされ、白い目で見られることもあった。だがシシリーはひたすらジェロームのことだけを考え、自分へ向けられる声と目をさえぎるようにしてきた。そう努めなければ、気持ちは辛さに呑み込まれていただろう。
「村へ帰ってもよかったのに……それとも、帰りづらかったのか?」
ジェロームが父や友人達との関係を気にしてくれているのに気付き、シシリーはかぶりを振った。
「いいえ、帰りづらいどころか、皆私を迎えに来てくれました。何度も……」
シシリーが一人になった直後、ディクソン、ハリエット、キャスバートの三人は館を訪れ、村へ戻ろうと再び説得を試みた。しかしシシリーの気持ちは何も変わらず、三人はそんな説得を何日も繰り返した。粘り強く通ったものの、先に折れたのは三人のほうだった。しつこいと思われても当然の説得でも、シシリーは追い返したりはせず、毎回三人を笑顔でもてなした。そしてやんわりと断りながら、ジェロームを待ち続ける意をきっぱりと伝えた。そこに揺れ動くものはなく、あるのは岩のように硬く重く居座る覚悟だけだった。
怪物の姿を目の当たりにしているディクソンにしてみれば、館に居続けるだけで大きな危険という認識だったが、父であるがゆえに娘の生半可ではない覚悟も察していた。そもそも疑惑だらけの領主と結婚すると決めた時から、覚悟はすでにあったのだろう。これ以上の説得は無意味だ――そう悟ったディクソンは、連れ帰れないのならせめてと、村の農作物や興味のありそうな本などを差し入れ、その安否を見守ることにしたのだった。
ハリエットとキャスバートも、同じく説得は難しいと感じ、諦めた。だが二人もまたシシリーを放っておくことはできず、仕事の合間を見ては顔を見にやって来ていた。他愛無い話をすることが多いが、怪物の恐怖がトラウマになってしまったハリエットも、過剰に心配するキャスバートも、最後には必ず村へ戻らないかと聞いてきた。それを断られると、二人は残念そうな顔になるが、すぐに笑顔に戻し、また来ると言ってくれる。以前とはどこか少し変わってしまったのかもしれない。だが友人として会いに来てくれる心に違いはない。
「ジェロームがこうして帰って来てくれたんです。私がここにいることも、きっと少しずつ理解してくれるはずです。父も、ハルもキャスも、時々会いに来てくれるんですよ。その時は声をかけてあげてください。前みたいに素っ気ない態度じゃなく、笑顔で」
「ああ……あの青年と初めて会った時か。あれは私も強く言い過ぎてしまったと思っている。言葉があまりに的を射ていたから……次に会うことがあれば、一言謝らなければな」
「まだジェロームへの疑いはあるかもしれませんけど、会話をすれば悪い印象も誤解もきっと解けるはずです。……疲れたでしょう? 中へ入って休んでください」
シシリーはジェロームの背中に手を添え、共に歩き始める。
「……庭が、とても美しくなったな」
眩しそうに周囲を見回すと、ジェロームは呟くように言った。
「私と一緒に、花達もあなたを待ってたんですから」
「そうか……では待たせた詫びに、水をやらないとな」
その答えにシシリーは小さく笑い、館へ入った。
「久しぶりの我が家です。どうですか?」
ジェロームは玄関広間を見上げながら言った。
「私にとってここは、決して居心地のいい場所とは言えない。だがそれでも、帰って来れば安心できるものなんだな」
前領主の行動から始まった様々な出来事は、ジェロームにいくつもの苦難を押し付けた。その胸にはいいこと、悪いことがいくつも絡み合い、複雑な心境を作っているのだろう。
廊下を進んで行くと、ジェロームは応接間へと入って行く。
「お腹は減ってませんか? 何か食べるなら食堂へ――」
「大丈夫だ。その前に、すべて話しておきたい。王宮で決まった私の処遇を」
そう言うとジェロームは先にソファーに腰を下ろした。その視線に呼ばれるように、シシリーも向かいのソファーに静かに座った。妙な緊張感に、わざと微笑みを浮かべて聞く。
「……こうして帰って来たってことは、ジェロームへの疑惑の証拠は何もなかったってことですよね?」
「ああ……まず君の父上の訴えは、私が魔術を使って怪物を生み出し、飼っているというものだった。そしてその怪物を使って、過去の事件を起こしたのではないかと」
「お父さんは、そんな訴えをしたんですね……」
シシリーは残念そうにうつむく。
「やつを間近に見ては、そう考えるのも仕方のないことだ。……この訴えの要点は二つ。私が魔術を使えたのか。仮に使えたとして、本当に怪物を生み出したのかということだった」
「どっちもあり得ないことです」
力強く言ったシシリーにジェロームは軽く頷いた。
「そう、あり得ないことだから、決定的な証拠もなかった。結果から言えば、私は訴えに当たらないとされた」
「それじゃあ、何もお咎めは――」
笑顔になりかけたシシリーだったが、それをジェロームは制した。
「だからと言って、すべてが払拭されたわけではない。私が実際に魔術を使ったり、怪物を生み出した証拠はなかったが、それを疑わせる物は多くある。つまり状況証拠というものだ」
「状況証拠……?」
「私がいない間に、ここへ調査官達が証拠になる物を捜しに来ただろう」
「はい。ジェロームの部屋や書庫なんかから、たくさんの物を持って行きましたけど」
「その大半は魔術に関する物だ。私の部屋からは資料探しの際に記した書類やメモ、書庫からは父が買い集めた古い魔術書……それらは決定的な証拠にはならなかったが、私と魔術をつなぐには十分であり、魔術を使えると疑う材料としては申し分ないものだ」
「でも、ジェロームは魔術なんて使えないのに……」
「しかしこれだけ魔術関連の物があるのは極めて疑わしい――それが王宮側の見方だった。しかも私は過去の事件ですでに疑われている前歴がある。再び調査の対象になること自体、すでに信用を失いかけていることだ。この状況から王宮は、爵位の降格と共に、私を領主の任から解くと決定した」
「え……じゃあ、ジェロームはもう、領主ではなくなると……?」
シシリーは驚き、目を丸くする。
「後任もすでに決まったようだ。領民にも近いうちに知らされることだろう」
「そんな……ジェロームは呪いが領地に広がらないように、そのために精一杯頑張ってたのに、解任するだなんて……」
「私を疑っているのは君の父上や幼馴染みだけではない。過去の事件を知る多くの領民もそうだ。彼らが不信感を持っていることは王宮も把握済みだ。それを放っておいて、万が一問題でも起こされたら、王宮としても対処しなければいけないし、面倒なことになる。そう考えれば私の解任は妥当な判断と言える」
「まるで、他人事のような言い方ですね……悔しくはないんですか?」
聞かれるとジェロームはうっすらと笑んだ。
「正直、ほっとしているんだ。父の過ちの代償だけで疲れ果てて、私はこの先、領主として治める自信を持てなかった。持とうにも長い時間が必要だ。それほどいろいろなことがあり過ぎた……。領主の任は解かれたが、幸い、王宮はこの館を私に残してくれた。しばらくは部屋で静かに、頭と心を整理したい」
するとジェロームはシシリーを見た。
「付き合って、くれるか?」
どこか不安げな灰色の目に、シシリーは微笑んだ。
「付き合わないとでも言うと思ってるんですか?」
「これからは今までとは生活の仕方も変わる」
「変わると言っても、前みたいに朝から夜まで休みなく出かけられるよりは、きっと幸せな生活ができるはずです」
「君にも苦労をかけるかもしれない」
「苦労なら散々かけられましたけど?」
いたずらな笑みを浮かべたシシリーを見て、ジェロームも小さく笑った。
「……そうだな。本当に悪かった」
「冗談ですから、真に受けないでください。私が望んだことで、今となっては仕方のないことだったってわかってますから」
「だが苦労をかけたことに変わりはない。シシリーには礼と詫びを兼ねて、何かしてやらないといけないな」
「そんなこと、考えなくていいですから」
「遠慮するな。これは私の気持ちだ。何か欲しい物とかないか? 服や小物だったり」
「欲しい物なんて、何も……」
「言ってくれ。でなければ私の気が済まないんだ」
じっと見つめて答えを待つジェロームに、シシリーは仕方なしに口を開いた。
「……じゃあ、一つだけ、いいですか?」
「何でも言ってくれ」
うつむき加減のシシリーは控え目に言った。
「時々でいいんで、一緒に、庭の散歩をしてください」
ジェロームは不思議そうに目を丸くする。
「そんなことでいいのか? もっと他のことでも……」
「それでいいんです。私は、そうしたいんです」
何かを貰って喜ぶなら、シシリーはジェロームとの時間を貰って喜びたかった。これまでは名ばかりの夫婦だったが、これからは違う。時間を共にし、寄り添え合えるささやかな幸せをこの身に感じられる。シシリーにとっては庭を一緒に散歩するだけで十分だった。
「してくれますか……?」
上目遣いに聞くシシリーに、ジェロームはにこやかに言った。
「そう言うのなら、散歩だろうと旅行だろうと、私は君の望むままにどこへでも供をしよう」
「何だか大げさですよ……でも、旅行もいつかできたらいいですね」
「できるさ。何せ私はもう領主ではないんだ。自由な時間も増える」
「そんなことを聞いたら期待しちゃいます」
「してくれ。シシリーの行きたい場所へ連れて行こう」
「その前にジェロームは自分の身をしっかり労わってください。私に付き合うのはそれからでもいいんですから。それと、その髪もどうにかしたほうが……」
シシリーの視線は長く伸びた黒髪を見つめる。
「……ああ、王宮ではひげは剃れたんだが、髪までは切れなくて。やはりひどいか?」
ジェロームは頬にかかった髪に触れながら聞いた。
「そのままだと、世捨て人のようにも見えます」
細身の体と顔に、何も整えられていない長髪のままでは、まさに言葉通りの人物にしか見えず、シシリーは苦笑した。
「そうか……解任されたばかりで、あまり町へは顔を出したくないんだが……」
髪を切るなら町の理髪師に頼むしかなく、そうなると住人達とも顔を合わせることになる。もともと不信感を持たれていたジェロームが領主を解任されたと知れば、ますます怪しまれ、何を言われるかわからない。そんな心配はシシリーも同じだった。
「じゃあ、私が切りましょうか?」
「……できるのか?」
シシリーは自信ありげに頷いた。
「はい。お父さんとか、村の子供達の髪を何度か切ったことがあるんです。玄人には及びませんけど、それなりにはできると思います」
「経験があるのなら……頼んでもいいか?」
「任せてください。素敵な髪にしてみせます。じゃあ、天気もいいですし、裏庭で切りましょうか」
そう言うとシシリーはソファーから立ち上がった。
「今から切るのか?」
「思い立ったらすぐやらないと。後回しにすると億劫になりますよ」
シシリーはジェロームの手を引き、部屋の入り口へ向かう。その顔は笑顔だった。
「私の髪を切るのが、そんなに楽しみか?」
「楽しいんじゃなくて、幸せなんです。ジェロームは退屈ですか?」
逆に聞かれ、ジェロームはふっと笑う。
「いや、こんな時間をまた過ごせている自分に、幸せを感じている」
ジェロームは引かれている手を引き寄せ、シシリーの顔をこちらに向けた。
「君がいてくれて、本当によかった」
穏やかな笑みに、シシリーも優しく笑い返す。そして二人は肩を寄せ合い、並んで部屋を後にした。二人の暮らしは、今日こそが本当の始まりなのかもしれない。そこにはもう偽りも苦しみもない。あるがままの心で、目の前の道を共に歩んで行くのだろう。たとえ険しくとも、互いの幸せを思いながら――そんな二人の背中を、廊下の奥に座る黒猫は感情のない目で眺め続けていた。
聖女と死神 柏木椎菜 @shiina_kswg
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