十六話
館に戻ると、ジェロームは階段を上がり、自室へと向かった。その後をシシリーは追う。
「まずは隠されていた資料がすべて揃ったのか確認する」
「どうやってですか?」
「資料は本のページをばらばらにしたような状態なんだ。だから全文章を通して読み、つながったものになっていれば、すべて見つけたと言えるだろう」
扉を開け、部屋に入ると、書類と本が雑然と置かれた机に行き、ジェロームはその引き出しを開ける。
「……悪いが、灯りを付けてくれるか」
頼まれたシシリーは机の脇に置かれたランプにマッチで火を付けた。柔らかな灯りは周囲に広がり、ジェロームの手元も照らす。
引き出しから紙の束を取り出すと、次は持っていたかばんから自分が見つけた二枚の資料、そしてシシリーが持って来た資料に目を落とす。
「これまで見つけた資料の、つながりのない部分に、この三枚が上手くはまるか……」
紙の束と三枚の資料を真剣に読みながら、ジェロームは確認作業をする。その背後でシシリーは祈る気持ちで見守り続けた。
部屋には二人の息遣いと、紙をめくる音だけが聞こえ続ける。五分、十分と経ち、シシリーは次第に緊張を帯び始めていた。文章がつながらないのでは……まだ資料が足りないのでは……そんな心配がじわじわと胸に広がっていく。文章に目を通すジェロームの横顔を見つめながら、息の詰まりそうな時間を待つ。そして――
「……大丈夫だ。すべて通して読める」
顔を上げたジェロームのその言葉に、シシリーは胸を撫で下ろした。
「よかった……じゃあ、資料は全部揃ったんですね」
「ああ。これで禁忌の魔術に関するものは集まった……あとは燃やすだけだ」
「どこで燃やすんですか?」
「応接間の暖炉でいいだろう。あそこなら一気に資料を燃やせる」
そう言うと、ジェロームは机に重ねられた数冊の本を持ち抱えた。
「それも、資料なんですか?」
「禁忌について触れている本だ。父はこれを読み込み、知ったんだろう」
「半分持ちます」
シシリーは重そうに持つ本を何冊か取っていく。
「助かる……では行こう」
部屋を出た二人は一階へと下り、真っすぐ応接間へ向かった。来客のないここではほとんど使うことのない部屋だが、シシリーの定期的な掃除のおかげで綺麗な状態は保たれている。
「私が暖炉に火を付けます」
本を傍らに置くと、シシリーはジェロームの部屋から持ってきたランプの火を使い、暖炉に火を起こし始める。村でもここでも、毎日のように台所に立っているシシリーにとっては、火を付けることなどお手のものだ。ものの数秒で火を移すと、少しずつ薪を入れ、その勢いを強くさせていき、暖炉の中に煌々と燃える火を作り上げた。
「……このくらいの火でいいでしょうか」
「十分だ」
ジェロームは暖炉の前に来ると、自分の手にある集めた資料を一度見つめ、そして放るように火の中へ投げ込んだ。一瞬火花を散らせた火は、飛び込んできた紙の束を囲むと、その縁から飲み込むように燃やしていく。表面に書かれた文字は黒い灰に変わり、暖炉の底に落ちていく。
「シシリーも、本を入れてくれ」
促され、本を手に取ったシシリーは、それを燃える薪の上に置いた。その瞬間勢いを衰えさせた火だったが、本という燃料を得てすぐに勢いを回復させる。分厚い本は見る見る黒く焦げていくと、その形を崩し、灰へと変わり果てた。それを見届けることなく、シシリーは次の本を入れる。ある程度燃えたら、また次の本を入れ、燃やす……それを繰り返し、二人はすべての資料を消し去った。夜は気温が下がるとは言え、まだ夏が残る今は、火の前にいるだけで額や首筋に汗が流れそうなほど暑かったが、二人は最後の資料が燃え尽きるまで、暖炉の前から離れず、その様子を見続けていた。
「……終わった……」
完全な灰に変わったのを確認すると、ジェロームは感慨深げに呟いた。
「もう誰も、呪いで死ぬことはないんですね」
「そうだ。シシリーも、私も、これで解放される」
するとジェロームは暖炉の火の明かりが届かない、部屋の薄暗いほうへ向けて言った。
「いるんだろう。何か言ったらどうだ。私は言う通り、仕事を果たした」
「仕事は、まだ残っているぞ」
闇から溶け出るように、死神は帽子の紳士姿で現れると、口の端に笑みを浮かべながらそう言った。
「見ていなかったのか。たった今、資料はここですべて燃やした。他に燃やすものなど――」
「まだある。消さなければいけないものがな」
ジェロームは表情を険しくする。
「見つけていない資料があるとでも言うのか」
「いいや。隠されたものはすべて見つけただろう。まだ残っている資料は……」
死神はジェロームへ顎をしゃくった。
「お前だよ」
意味がわからず、ジェロームもシシリーも困惑の目を向けた。
「何を言っている。私はもう資料など持っては――」
「持っているではないか。その頭の中に、記憶という資料を」
「記憶、だと……?」
呆然とするジェロームに死神は微笑む。
「お前は禁忌の魔術に関する資料すべてに目を通してしまっている。すなわち、禁忌の魔術の使い方を知っているとも言える」
「し、知るわけがないだろう。目を通したのは確認のためであって、内容などまったく理解していない」
「理解していようとなかろうと、資料の記憶が確実に残っているのは確かなことだろう」
「すべて憶えてなどいない。私はそこまで記憶力に長けていない」
「憶えていないから使うことはない……そんな言葉は信じられない」
「嘘は言っていない。本当に私は――」
「では資料の内容を憶えていないことを、私に証明できるか?」
微笑み続ける死神をジェロームはねめつける。
「そんなこと、不可能だ」
「私もそう思う。そしておそらくお前は、嘘は言っていないのだろう」
「それなら――」
「だがすべての資料に目を通したことは事実なのだ。内容の記憶が残っていることも。憶えていないと言っても、ある日突然思い出す可能性もないとは言えないだろう」
「限りなく低い可能性だ」
「であっても、可能性は残されるのだ。私がすべきことは、再び禁忌の魔術を使わせないこと……それがどんなに小さな可能性であっても、潰さなければいけないのだよ」
「そんな、馬鹿な……」
ジェロームは呆れと怒りのこもった目で死神を見つめた。
「あなたは、ジェロームの記憶から、資料の内容だけを消すことができるんですか?」
シシリーは不安げに死神に聞いた。
「私は魂を回収する存在だ。そんな器用なことはできない」
「それじゃあ、どうやって記憶を……まさか……」
「記憶は消せない。ならば記憶があっても、使えない状態にすればいい」
「ジェロームを、殺すんですか……?」
死神は質問に答えるように笑んだ。途端にシシリーは全身に恐怖と寒気を感じ、顔を引きつらせた。
「あなたの言う通りに、ジェロームは仕事を果たしました。資料を読んだのだって、そうしなきゃ禁忌の資料か確認できないからで、見つけるために必要なことをしただけです」
「私は初めから言っていた。禁忌の魔術に関するものすべてを消すとな。それが物理的な資料だけとは言っていない。注意を怠ったのはそちらだ」
これにジェロームはぎり、と奥歯を噛んだ。
「私を、騙したな」
「騙したとは心外な。的外れな言いがかりはやめてもらいたい」
死神は不敵な笑みを見せる。
「記憶を消せないお前に私ができることは、その魂を回収することだけだ……さあ、仕事を終わらせてもらうぞ」
紳士姿の死神はゆっくりとジェロームに近付いて来る。
「こんなの、ひど過ぎます! ジェロームには何の落ち度もないのに……必死に資料を集めただけなのに、どうして死ななきゃならないんですか!」
悲痛な声を上げるシシリーを死神は横目で見やる。
「他に方法はない」
「だからって、こんな乱暴なこと、納得できるわけが――」
「シシリー、もういい」
横に立つジェロームは静かに言った。
「よくありません。あなたを死なせるなんて――」
「相手は人ではないんだ。抵抗は無駄だ」
シシリーは呆然とジェロームを見つめた。
「受け入れる、つもりなんですか?」
これにジェロームは薄い苦笑を浮かべた。
「私は許されないことをしてきた。身代わりのために、何も知らない二人の女性を犠牲にしたんだ。死を免れないと言うなら、これはきっとその報いなんだろう」
「違うわ! 身代わりは呪いから領民を守るために作った苦肉の策で、仕方のないことだった。確かに犠牲を生んだのは悲しむべきことだけど、ジェロームはそうするしかなかったのよ。おかげで呪いが広がることは止められたわ」
「だが二人を犠牲にしたことは間違いなく私の罪だ。このままのうのうと生きていいはずがない……」
「そんなこと、言わないで……。ジェロームの心を、やっと知れたのに……」
「どうしようもないことなんだ……」
力なくそう言ったジェロームは、シシリーの肩に一度だけ触れると、すぐに死神へ顔を向けた。
「……仕事を、終わらせろ」
「この世との別れはもういいのか?」
「……さっさとやれ」
「そうか……」
死神はジェロームの目の前で立ち止まる。
「では、私と共に、冥界へ行こうか」
二本の腕がジェロームへ伸ばされようとした時だった。その二人の間に割り込み、ジェロームをかばうように立ち塞がったシシリーは、死神を睨むと言った。
「提案があります」
「シシリー、何を……」
驚くジェロームには構わず、シシリーは続ける。
「まだ、ジェロームを殺さないでください」
死神は首をかしげ、微笑む。
「慈悲を望む気持ちはわかるが、しかしそれは提案ではなく、懇願だ」
「いいえ、提案です。ジェロームを殺さず、このまま生かしてください。そしてもしこの先、禁忌の魔術を使う素振りを少しでも見せたら、その時は、私と一緒に殺してください」
「シシリー!」
ジェロームは肩をつかむと、シシリーを自分に振り向かせた。
「何を言っている。君が命を懸ける必要など……」
「命なんて懸けてません。だってジェロームが魔術を使うことは絶対にありませんから」
「そうだが、向こうはそう思ってはいない」
「だからこういう提案をしたんです。使えば、ジェロームの命だけじゃ済まない提案を」
「しかし、これはあまりに……」
「ふっふっふっ……」
帽子のつばをつまみながらうつむいた死神は、低く静かに笑った。
「どこまでも清い魂を持った人間だ。せっかく呪いから解放され、平穏な生活に戻れるというのに、それを捨てて命懸けの人助けをしようとは……恐れ入ったものだ」
「あなたはジェロームの時の提案を受け入れました。私のこの提案も、受け入れてくれますか?」
「受け入れるとなると、私はまだここに居続けなくてはならなくなるな……」
「駄目、ですか?」
真っすぐ見つめるシシリーに、死神は口角を上げて見せた。
「駄目ではない。が、また監視の日々が続くと思うと辟易する。しかし、それを上回る興味深いものを見つけてしまったようだ」
にやりと笑い、死神はシシリーに顔を近付けた。
「穢れの見えない、限りなく清らかな魂……これを冥界に持ち帰ったら、皆、どれほど目を見張ることか……」
「シシリーに近付くな」
ジェロームはシシリーを自分の後ろへ隠し、死神を睨み付けた。
「ふっ、そう警戒するな。彼女の魂は奪わない。今はな……」
「それじゃあ、私の提案を……?」
死神は軽く頷いた。
「そこまで覚悟があるのなら、いいだろう。受け入れてやろう」
シシリーは安堵して笑みを浮かべた。それを見たジェロームは咄嗟に声を上げようとしたが、その口からは何も言葉は出ず、複雑な面持ちになるだけだった。
「今日で終わるものと思っていたが、まだ縁は続きそうだ。私に魂を回収されるまで、せいぜい気を付けて生きることだ……ではな」
死神は笑みを残したまま後ずさって行くと、部屋の暗がりへと姿を消した。
「……これで、終わった」
死神が消えた暗がりを見つめ、シシリーは呟いた。
「終わってはいない……呪いの恐怖は、引き続いている」
ジェロームはなおも複雑な表情を崩せずにいた。
「死なずに済んだんです。もっと喜んでください」
「喜ぶなどできない。シシリーの命を巻き込んでおいて……」
「これは私が望んだことです。何も気にしないでください」
これにジェロームはシシリーをじっと見つめた。
「気にせずなどできるわけがないだろう。君の命を危険にさらしているのに」
「危険? じゃあジェロームは禁忌を行うつもりがあるんですか?」
「まさか。私には魔術の心得などないし、使う理由もない」
「それなら何も危険じゃありません」
シシリーはにこりと笑った。
「……私を、信じるというのか」
「あなたは信じられる方です」
「だが私は犠牲者を二人も出した上に、君も騙していたんだ……自分でもわかっている。信用などない男だと。まだ間に合う。やつに提案の撤回をすべきだ」
「そうしたら、ジェロームは殺されてしまいます」
「だからそれでいいんだ。私が死ねば完全に終わる。君を呪いの恐怖に巻き込み続けるよりは、そっちのほうがいい」
「何がいいっていうんですか」
シシリーは語気を強め、ジェロームに詰め寄った。
「ジェロームが死んでしまったら、私には何がいいっていうんですか。提案は私が望んだんです。あなたを、失いたくないから……魂まで、孤独にさせたくないから……私はジェロームに、寄り添っていたいんです」
「私には命を懸けてもらうほどの価値などない。だから――」
その先の言葉をさえぎるように、シシリーはジェロームに抱き付いた。
「自分をそんなふうに言わないで。人に価値なんて付けられないわ」
背に回されたシシリーの手に力がこもるのをジェロームは感じていた。
「私には、ジェロームが必要なの……ただそれだけのこと」
ジェロームは肩をつかむと、シシリーの顔をのぞき込む。
「私のしたことを、許すのか」
「許すも何も、あなたに怒ったことなんて一度もないわ」
シシリーは悲しい表情の中に、わずかに笑みを浮かべた。
「私に罪悪感なんて感じないで。ジェロームが側にいないことのほうが、私にとっては辛いことだから……」
それはジェロームも同じだった。身代わりとして迎えながらも、献身的なシシリーにいつしか情が移り、そして愛おしく思い始めていた。だからこそ騙した自分の行為を許せず、罪の意識を深く感じていた。こんな自分が彼女の側にいていいのか、巻き込んでしまっていいのか……。だがシシリーはジェロームのすべてを受け入れようとしてくれている。命を懸けてまで、寄り添っていたいと。その言葉に甘えてはいけないとわかっているが、ジェロームはもう心を偽れなかった。シシリーの細い体を抱き締め、その温もりと気持ちを感じ取った。だが頭にふとよぎったこの先の自分を思うと、決して楽観的なことは言えなかった。
「私も、できることならシシリーの側にいたい……だが、おそらく私は疑惑追及のために連行されるだろう。これは初めてではないし、追及もより厳しさを増すはずだ。そうなれば数ヶ月……下手をすればそれ以上戻れないかもしれない。その時は――」
シシリーは聞き終える前に、すぐさま首を横に振った。ジェロームの言いたいことはわかっていた。
「……君が、辛くなるだけだ」
再び首を振りながらシシリーは言った。
「失うより、待ちぼうけるほうがまだ幸せだわ」
「私のために時間を無駄にすることは――」
するとシシリーの手は、ジェロームの背中をぎゅっと抱き締めた。
「無駄なんかじゃない。もう、何も言わないで……」
ジェロームの胸にシシリーは顔を埋めた。不安に押し潰されそうな表情を見られたくなかったのだ。死神にあんな提案をしたことは、まったく怖くないわけではなかった。ジェロームのことは信用しているが、それでも命を懸けるという選択は、心のどこかに恐怖を生み出す。可能性は限りなく低くても、死ぬかもしれないという思いは消えない。それをシシリーはジェロームへの好意と前向きな気持ちで消そうとしていた。このまま二人で幸せに暮らしていけるはずだと。しかしジェロームの言うように連行され、長期間戻らない状況になった時、果たして自分はその辛さに耐えられるのだろうか――そんな不安だけは消せずにいた。
それをまるで察したかのように、ジェロームはシシリーの飴色の頭を静かに、優しく撫でた。何も言葉はなくても、心はしっかりと伝わってくる。確かなことは、この互いの心だ。それがつながっている限り、不安を感じるなど、それこそ無駄な時間なのかもしれない。この先何があろうと、これまでと同じようにジェロームのためにできることをすればいいのだ。不安を感じる間もないほどに――そう思うと、シシリーは顔を上げ、再び笑顔を見せることができた。
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