マニク/スタートライン

 雨が降ってきた。

 道は、いや足元はどんどんぬかるんでいく。

 足がもつれ、体温が水に混ざって溶ける。


「ハッ、はッ……」


 拍動だけが加速し続け、体は重い肉の荷物に成り下がった。

 吸っているのか吐いているのか分からなくなって、脳は疲労に溺れ沈んだ。

 痛みをどこで感じるのか曖昧になる。

 苦痛や熱が肺に集まり、陽極泥じみた塊を作り上げる。



 。走る自分に冷めた視線を送る、もうひとりの僕がいた。いいや違う。僕は一人しかいない。僕の記憶が、が過去でしかないという認識が、僕の感情に冷たい風を送っている。



(これは……?)


 あの日のリフレイン。

 イシャンから行く先もなしに走り出した、あの日の情景そのままだ。


(これにも何か意味が? お母さん、さんざんこれで最後って強調してたのに)


 もう早く終わって欲しい。……とはチョップの手前、さすがに思えなかったが。


「!」



 まぶたが粘土のように沈み込み、それでも開いた視界が伝える。


 老人が佇んでいた。彼本人に見覚えはないのに、知っている誰かの面影を想起させる、不思議な縁を思わせる老人だった。白く長いヒゲはなく、ただ肌の粗さと色で年齢を推定した。


 はわけもわからず、老人に向かって歩き出した。そうしなければいけないと思った。


 ……幾重にも濡れ着を被ったような気分だった。一歩踏み出す度に、肺かどこかがきしるのがわかった。

 それでもを止めなかった。前足を地面に縫い付けて、後ろ半身を引っ張るように。。だからその前に、という魂胆だった。


 理由はよくわからないが。近づいてきたのは、自分ではなく老人ではないかと思った。彼の瞳はその濁った光も含め、全体として僕を差していた。


「カカオ」

「……!」

「カカオ」

「なぜ……?」

「……すまん、すまんな。そうか、そうだよな。君がカカオだ」

「?」

「少し渡したいもの……うん? 違うな。まぁとにかく、ちょっと用があって呼び出させてもらった。『これで最期だ』と、首を吊った君には悪いんだけどな」


 眼球が完全に覆われた。暗闇の中で老人の声だけが反芻はんすうされる。


「握り込みなさい」


 まだ開く左の五指で、差し出されたものを確かめる。それはひどく冷気を溜め込んでいて、滑らかで、それでいてひどく『死』の帯びた形をしていた。


「黒曜石の、ナイフ……?」

 

 僕がチョップに渡したものだ。黒曜石の石斧のうち、最も小さくて鋭利な刃を取り出した。剥き身の凶器。


「そのナイフは元々イシュタムが使っていたものだ。もう二度と使わないからと、オノにめてしまって……それがこうして、再び本来の形を取り戻したということになるな」

「お母さんが?」

「あぁ。理由はやはりそれになるのだろう」

「???」

「……済まない。こうして人と話すのは非常に不得手なんだ。何しろ平時はしがない牢番をしているだけなのだから。……だから、不器用で済まない。少しだけ、私の独り言に付き合ってほしい……」

「……、」


 わかりました、と僕は答えた。

 深く息を吐くと、老人は話し始めた。まるで、温めていたアイデアが全て白紙になって、それでも思い出そうとするように。


「私は――私は……っ!」

 

 ―― ――


 老人が何を言っているのか、僕にはよくわからなかった。そして老人にとってはそれでも良いようだった。彼は何か僕に対して大きな罪を犯したらしい。それを僕に懺悔して楽になりたいようだった。


「私が君の未来を視たのは、イシュタムに頼まれたからじゃない……全ては私が勝手にやったことだ。だから君の未来が確定したのは、全て私のせいなんだ……!」


 老人は僕の肩を掴んだ。その手のひらはイシュタムの頬よりも乾燥していて、つまらない連想をしてしまうほどだった。――どれだけの間、人に触れてこなかったのだろう――


「私はより良い未来を選びたかった。強く賢く、立派な子どもに生まれてほしかった。 それだけで君が幸福になれると、馬鹿正直に信じていたんだ!! ……『どんな子に育つかな』って、イシュタムのお腹を撫でていると彼女が言った。それにどう答えたのか、もう思い出せない。私、は……!

 私は失敗した。誤った選択をしただけじゃない。君が病に冒される未来を視た時、いや、それからもずっと! 私は何も出来なかった!!!! 君を苦しめただけだ。すべてを狂わせたのは私なんだ……本当に、すまない……!」


 老人の身体からにおいがした。それはお母さんにも似ていたし、僕にも似ていると思った。どうしてそんなことを覚えているかというと、いつの間にか僕が老人から目を背けていたからだった。

 僕は拳を握って老人の肩を叩いた。柔らかい身体だった。

 僕は拳を解いて老人にもたれかかった。堅い身体だった。

 気づかぬうちに老人の言葉は止まっていた。老人が僕を見ているのが頭の後ろでわかった。長い時間が流れた。

 僕は、生きたい、と言っていた。


「これから前提をくつがえす。――ここは過去ですらない。私の視たなんだ。君が月食症に罹るという確定した未来、その事実の根本を断ち切る。観測者が、いなくなればいい」


 は? と声を上げる暇もなかった。老人は僕の方に全ての体重を預けた。黒曜石のナイフが彼の腹部を貫き、そして貫通したと思しき不快な音が耳につく。

 とは、と。老人は粘ついた液体を吐き出した。けれど鮮血の赤みは、決して網膜に映らない。


「悪いな、こんなことしかしてやれなくて……。けれど、まぁ。これでようやくスタートラインだ。今なら、今さら、思い切り言えるよ、カカオ。

 ………………生きろ――――――!」


 それだけだった。

 全身を包んでいた蒸し暑さと重苦しさが溶け、まぶたを開くと懐かしいサバンナがある。サラサラした液体が足元に溜まっていた。月蝕と同じ色をしていた。


 そして、老人はどこにもいなかった。











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