イク/もちもちトルティージャ

 勝手に女の子と思い込んでいたものの、妖精さんは十代の少年の形を取っていた。

 股関節の前に白い布が垂れたローインクロースを履き、それ以外の部分からは瑞々しく日焼けした肢体がうかがえる。

 入れ墨タトゥーはまだしておらず、ビックリすることに体にはきずがなかった。


「! それ……」


 さきほどカカウの樹の根を切断したのは手頃なオノだと思ったが、どうやら違った。

 刃はその辺の石ではなく黒曜石。脆いがその圧倒的な切れ味から、道具としては都で最も重用される石だ。

 ただ、確かこの近辺では採れなかったはず。

 ずっと南に下って、キチェの辺りで買わないといけないのではなかったっけ?

 キチェってどこか知らんけど。


 潰れたマメの末路をひとり想像していると、少年がやっと口を開いた。


「甘い香りがする」

「………………ごめん」

「謝らないで、別に困るのは僕じゃないし」


 それにしても、この樹は珍しい部類に入るのでは?

 ここらの植生といえばサバナだけだし、カカウの大木を育てようとすれば、近くにある大泉セノーテをフル回転させないといけないはずだ。

 そんなことをする余裕があるほど、この村は富んでいるということなのだろうか。


『本当だ! 嘘じゃないよ!』

『ビトールはホラ吹き。ビトールはホラ吹き』

『いたんだって、妖精が!』

『そりゃみんなで大切に育てたカカウだもの。妖精の一匹ぐらい生えてくるわよ』

『冗談に乗っかるなって。大体、なんで妖精が突っ伏してるんだよ。なんでコウモリの鳴き真似するんだよ。コウモリの妖精なのかカカウの妖精なのか、それともうつ伏せの妖精なのかハッキリしろよ』

『妖精に訊いてくれよ!』

『おいビトール、ホントにお前、次でアウトだかんな。かみさまも俺たちも嘘つき嫌いだかんな』


 彼と同じくらいの年のこどもだろうか、騒々しい話し声が聞こえてきた。どうやらここは村らしい。

 ここに来る途中、走っていた時の記憶は曖昧だが、私の走行能力を考えると、まだ都の勢力圏に入っているだろう。

 するとここはマヤパンの従属村といったところか。


「ねぇ」と、声がかかった。

「?」

「ねぇ」

「……ああ、ボクはチョップ。きみは?」

「チョップ。走ろう」


 少年はそう言うなり、私の手を引っ張って駆け出した。

 オノを強く握りしめたまま、倒木に一瞥いちべつすらくれないで。


「……カカオ」


 小さな唇からの呟きだった。

 なのに足音に掻き消されることは決してなかった。


 ――――――― ―――――― ―――――― ―――――


 昼、その日最後の食事。

 少年の母は例に漏れず親切な方々で、ご飯をいただけることになった。

 それまでは畑を手伝ったりして、目が覚めてから3時間ほどが経っていた。


都市マヤパンから来ました。親切にしていただいてありがとうございます。

 今晩にはここを出ようと思います。え? ああいや、目的地がパッと定まっているわけではないんです。けれど、まだ長旅と言えるものはできていませんし、しばらく動きたい気分ですので」


 献立はトルティージャだった。トウモロコシの加工品・ニスタマルから作る一種のパンであり、マヤパンでもみない日はなかったほどのオーソドックスメニュー、というか主食だ。


「わぁ、もちもち!」


 本音を言うとごく若干の酸味を感じたが、敢えて口にするほどの私ではない。いや、礼儀としてどうこう以前に、それは禁句なのだ。

 トルティージャ作りは女性の物差しと化している。上手く挽けない者には怠惰だとか不潔だとかの烙印が押されるのだ。また、家族だけなら自分の味に慣れさせておこう、という試みも不可能。たまのゲストをもてなすのも、またマナーだからだ。


 あぁなんて恐ろしい! 幼い頃にもうちょい練習しとけば良かったかしら。


 煩悶の中、もちもちトルティージャを口に運ぶ。

 カカオはたくさん食べた。

 カカオのお母さんは食事の間、ずっとニコニコしていた。



 最後の一切れをお母さんが口に入れると、ちょうどカカオが言った。


「…………ロープ、どうしたの?」


 彼は壁のフックを一瞥はしたが、そこから目を伏せたまま尋ねた。

 お母さんは喉の奥で動くトルティージャをゆっくりと飲み込み、口をあまり動かさずに答えた。


「ああ、枝に掛けたよ」


 カカオのこちらを向いた右耳が紅潮した。


「今朝?」


「うーん、トルティージャ作る前だね」


 私は自分の使った器をジロジロと眺めて、それから、もう食べ終わっていたことを思い出した。


 立ち上がる音がしたと思ったら、カカオはもう玄関に手を掛けていた。

 私はどうしてか食卓を振り返ることができずに、彼を追って家を出た。

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