第10話

 夜の森に、枯れ枝を踏む音が二人分響く。

 片方は猟銃を持ったアイザック、もう片方は慱飯のものであった。


 慱飯はこの森が酷く苦手であった。同じような光景が続く上、葉が傘のように折り重なり、日や月の出入りが見にくいからである。

 おかげで方向を見失いやすく、彼は一人で街と家を行き来しようとして、何度か遭難しかけていた。

 百合が知ったら、きっと大笑いするだろう。


「はぁ、アイザックさん、ほんと慣れてますね...」


 前を歩くアイザックは足場の悪いこの森を、すらすらと歩いていく。お互いが手を伸ばしても、ぎりぎり届かない程度の距離が開いていた。


 体力に自信のある慱飯だが、森を通る行為は体力を消耗する。加えて近頃は街でぬくぬくとしていた為、すっかり鈍っていた。


「...少し休むか」


「すみません、はぁ、 あ、ありがとうございます」


 彼は、木に手をついて肩で息をしなければならなかった。

 冬の風が慱飯の肌を撫で、汗を冷やす。体を冷まそうと吸い込んだ冷気が肺に刺さり、思わずむせた。

 息を整えるため目を瞑りながら、呼吸を繰り返す。ブレンダンには今日は帰らないと伝えていた。あの家は、一人暮らしには少々広すぎるだろう。

 悪いことをした。帰れないと伝えたとき、彼の残念そうな顔が脳裏に浮かぶ。


「あれ、お前」


 ふと目を開けると、股の下から猫が一匹彼を見上げていた。あの一つ目の猫だ。アイザックの持つランプの光が毛皮を反射させなければ、気付かなかった。


 目線を合わせるようにしゃがみ込むと、慱飯の吐く白い息を不思議そうに見つめていた。


「にゃあ」


「よしよし、お前はどこからでも出てくるな」


 撫でる前から耳を畳んでいた猫に、思わす笑みがこぼれた。望み通り頭を撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らす。


「その猫は」


 遥か上から降ってきた声に顔をあげると、アイザックが見下ろしていた。ランプに照らされた顔はいつも以上に影が濃く、その迫力に思わず尻込みをする。


「あ、ああ。この子、ブレンさんの庭で見つけて、水をあげたら懐かれてしまって」


 アイザックは、何故か怪訝な顔をしていた。


「人懐っこくて良い子ですよ」


「...よほど気に入られているのだな」


 抱き上げられた猫は、慱飯の腕の中で気分良さげに寛いでいる。慱飯が立ち上がった頃には、アイザックは既に背中を向けていた。


「回復したなら行くぞ」


「?...はい」


 何やら緊張の色が混じった声に、慱飯は小首をかしげる。


(もしかして、小動物は苦手なのか?)


 歩いている間も猫は大人しく、時折にゃあ、と声を上げながら慱飯に体を預けていた。


 暫く歩くと、懐かしい光景が目に飛び込んできた。家の周囲は木が切り倒されている為に視界が良く、白い百合の花が、玄関先でぼんやりと光っている。

 この先にいるのは未知数の化け物かもしれないのに、百合がいる証拠があるだけで、慱飯の胸は凪いだ気持ちになる。


「...!」


 扉の前まで来ると、不意にガチャリと音がした。


 森で唯一、月光が存分に降り注ぐこの家の玄関が、ゆっくりと開く。

 無意識に、慱飯は身を固くしていた。夢で見たあの3つ目の恐ろしい猫が、求めていたトルバランという悪魔が、慱飯の眼の前に姿を表すかもしれない。


 扉が開ききり、最初に慱飯の目に飛び込んできたのは、光を反射して輝く美しい銀髪だった。


「いらっしゃい、慱飯くん。待っていたよ」


 堂々たる姿勢で彼を迎えた化け物は、絶世の美貌を持ったマリア・ゴーチェの姿をしていた。



ーーーー


 いつもの居間へと通された慱飯は、いつものようにマリアと対面で座る。しかし、マリアの雰囲気は全く別物だ。


 彼女は非常に落ち着きを払っていた。ランプの光のみで照らし出された室内で、異形の目を持った美貌がこちらをじっと見つめると思わず身がすくむ。

 やりにくい。慱飯がソレと対面して感じた印象だった。

 無意識に、軽く胸を叩く。


(...百合ちゃんも聞いているのか)


 テーブルの上には、活けた百合の花が1本。

 そして、二人の前に紅茶がそれぞれ1杯ずつである。

 

「...さて、ご足労感謝するよ慱飯くん。私はトルバラン。ブギーマンの一種さ。今はマリアの体を借りて君と話している」


「お初にお目にかかります、慱飯です」


「そう改まるな。君はマリアと仲良くしていたろう、彼女だと思って肩の力を抜くがいい」


 無茶言うな。

 首元まで出掛かった言葉を、彼はなんとか飲み込んだ。慱飯は先程からニコリとも笑わず、真っ直ぐ見詰められているのだ。整った顔というのは、それだけで強い迫力を持つ。


 この家に帰ってから一言も発さず給仕に務めるアイザックを見るが、全く返事がなかった。

 出された紅茶には手を付けず、慱飯は続ける。


「失礼ですが、体を借りているとはどういうことでしょうか。あなたは本当にマリアさんではないんですか?」


「違う。憑依と言ってね。君のように我々妖怪を見る力がない者と話すときに使う手段だ」


「は、はあ、ヒョウイ」


「君が知っておくべきことは2つ。私はマリアではなく、トルバランであること。そして、魂が2つ同時に入っているこの状態は、身体に拒絶反応が起きる」


「拒絶反応?」


「ああ。免疫が細菌やウイルスに対抗するように、風邪のような症状が出る。時間が経てば立つほど症状は重く...」


 僅かな時間、目を閉じるトルバラン。

 慱飯は緊迫した雰囲気の中、息を呑んで見守っていた。


「──まあどうでもいい話だ、本題に入ろう」


「えっ」


「こんなことに時間を割いている場合ではない、私もマリアの負担は最小限にしたいと考えているし、時間は有限だ。そうだろう、慱飯くん」


「そう、ですね」


 自分が始めた話を、投げやりで終わらせるトルバラン。

 顔が笑っていないせいで冗談か本気かは、慱飯には読み取ることができなかった。

 ただ、これでようやく慱飯は納得した。

 この人物は、絶対にマリアではない。


「君は私に何か用があるんだったね」


「は、はい」


 急に話を振られて、慱飯はわずかに声が裏返る。


「トルバランさんは、腐ってしまった肉体を治療出来るとお聞きしました」


「誰からだね?」


「墓の乙女と、赤目の少女の逸話から」


「ああ...あれか」


 トルバランは、何かを呼ぶように手招きをした。すると、慱飯の膝で寛いでいた猫がゆっくり起き上がり、トルバランの腕を伝い肩へ飛び乗る。


「悪魔の話だろう?随分と出世したもんだ」


 私は悪魔じゃないんだが、と猫の頭を撫でながらトルバランは呟いた。


「その猫は」


「私の分体だ、子機と言ったら分かるか?これが見れば、聞けば、私に伝わる仕組みになっている。可愛がってくれたようで感謝するよ」


 にゃあ、と1つ目の猫が鳴いた。

 井戸で水を飲んだ時、街のアイザックの家にいたとき、森で遭遇したとき。猫との光景が、走馬灯のように慱飯の頭を通り過ぎていく。


「トルバランさん、脚を治療してほしい人がいるのです」


「いいよ」


「名前は百合という女性で...えっ?」


 あまりにもあっさりと、トルバランは首を縦に振った。

 聞き間違いではないかと、慱飯は己の耳を疑ってしまう。


「え、あの、いいんですか」


「うん、いいよ。私は人間が好きでね。君の事は特に気に入ってるんだよ、昔のアイザックを見ているようだ」


「は、はあ」


「最も、彼よりは随分器用だ。他人へ取り入るのも上手い。とても人間的で良い」


 トルバランは、自分の左後ろに立って控えるアイザックを一瞥する。彼は我関せずという姿勢であるが、眉間の皺は深く刻まれていた。

 なるほど、確かに今までのことを思えば、彼は色々と不器用な人物である。


「それでは、百合さんについても」


「あの植物が生えた女だろう」


「話が早いですね」


「君のことはずっと見ていた、詳しい事情を改めて言われなくても、ちゃんと把握しているから安心しなさい」


 "猫の目が怖い、たすけて"


 不意に、葛木薫のノートに書かれた一文を思い出した。彼女は、この覗き魔に見られていることを知っていた。

 暗闇から自分を見る悪魔を見て、どれ程の恐れを感じただろうか。全てを知らされた慱飯さえ、背筋に薄ら寒い物が這い回っているというのに。


「丁度、東人の死体を1つ持っている。あの植物と同じような体型のものだ。君が望めば、すぐにでも縫合してあげよう」


「それでは」


「ただし、3つほど約束を守ってもらう」


 白い百合の花が、ランプに照らされて光っている。

 せっかくの月夜だというのに、カーテンは締め切られていた。


「約束?」


 トルバランはどこからか羊皮紙を取り出していた。

 机の上に置くと、トントン、と2度指で叩く。


「一つ、トルバランの名前を無闇に語らないこと

 二つ、自殺の禁止」


 綴った言葉が、慱飯の羊皮紙に書き上げられていく。

 焼き焦げたようなその文字は、金色に輝いていた。


「三つ、私、トルバランとはこれ以降の契約を行わない」


 アイザックが、いつの間にか持ってきた羽根ペンとインクを机の上に置く。


「以上、これを破った場合は君の魂を頂こう、慱飯くん」


「魂...」


「なに、死後の自由がなくなるだけさ。問題ないだろ」


「大有りだと思いますが」


 トルバランが、羊皮紙に己の名前を書き込みながらそういった。

 眼の前の光景に唖然としながらも、慱飯はなんとか言葉を続ける。


「...3つ目の、これ以上契約を行わない、というのは?」


「私は、あの百合という植物の女が嫌いだ。もう少し正確に言えば、元となった東人が嫌いだ。だから、あれに技術提供をするのは正直嫌だ。関わっていたくもない」


「先程、人を好むと聞きましたが」


「君は肉が好きだからといって、泥に塗れたポークソテーをディナーに出されても怒らないのかね」


 トルバランが葛木薫を酷く嫌っている。

 それだけはヒシヒシと肌へ伝わってくる。


「だけれど、私は君をとてもとても気に入っている。疲労するだけの悪感情よりも、胸が高鳴る君への好意のほうが大きいんだ」


「だからこそ、君へ協力する。君となら、契約をする気になった。でもこれ以上はする気がないし、どうせ──」


 一拍、間があった。

 急に、ふん、と鼻を鳴らしたトルバランは、何事もなかったように羊皮紙と羽ペンが慱飯へ渡す。


「契約期間は、君が死ぬまでだ」


「し、死ぬまで」


「嫌か?じゃあ1年でいい」


 いちねん、と慱飯の口が声もなく繰り返す。


「私は悪魔じゃないからな。契約期間を1年に短縮してもいい。代わりに短刀を渡してもらおう」


 トルバランは、表情を動かさず紅茶を一口飲む。

 取手を使わないことが、妙に印象に残った。


「君が愛を惜しまず世話する短刀。それに掛けた時間を代わりに買おうというのさ」


「しかし、それでは時間の釣り合いが取れません」


「私は量より質を求める。そして価値は私が決める」


 動揺を隠せない慱飯の背を、トルバランが言葉で押す。


「期間をすぎれば君は私の手から自由になり、同時に百合もこの家から開放される。どうするかね、慱飯くん」


 たった1年。

 一生を思えば、酷く短い期間であった。

 あまりにも、破格な条件だ。破格過ぎて気味が悪い。こういうときには、必ず何処かに落とし穴があるはずだ。

 慱飯は疑い深く、質問をぶつけていく。


「1年経っても、百合さんの脚はそのままですか」


「もちろん」


「契約を違反した際は、俺の魂はあなたのもの。契約は」


「その時点で終わりだな、百合の脚も回収する」


「俺が、不慮の事故で命を失った場合は?」


「百合の脚は回収しない。契約の完遂と見なそう...元々、一生という条件なのだから」


「それでは」


「慱飯くん、私は少々気まぐれでね。早く決めてくれ給え」


 ランプの光が、怪しげに揺れた。

 月夜を思わせる双眼と、黒猫の一つ目が全て慱飯に向けられる。


「──わかりました」


 羽ペンをとると、慱飯は自らの名前を書いていく。胸元から短刀をだし、契約書と一緒にトルバランへ渡した。

 契約書をアイザックに預けると、トルバランは短刀を鞘から抜いた。よく手入れされたそれは、ランプの光を反射してよく輝いている。


「これ、血を吸っているな」


 ぴた。


 と、慱飯の動きが止まった。朱が引かれた目を僅かに丸くし、トルバランを凝視していた。

 しかし、直ぐに異常な雰囲気はすぐさま消え去り、人の良さそうな笑みを浮かべる。


「アイザックさんのものでしょう、前に少し切ってしまったので」


 トルバランは何も言わず、短刀を鞘に仕舞う。

 紅茶を一口飲むと、不意に微笑んだ。


「...やっぱり君は、アイザックと似ているよ。慱飯くん」


 立ち上がって、彼女は慱飯の隣に来ると手を出した。やはりマリアの体は大きく、立っているだけで圧倒する雰囲気を持つ。

 中身が落ち着いた性格ならばなおさらだ。


「契約は成立だ、1年間よろしく頼むよ」


「はい、こちらこ、そッ!?」


 呆気に取られた慱飯も直ぐに同じように立ち上がり、握手をする。

 が、手を握った瞬間彼の声が痛みで上擦った。


「ん?...ああ、すまないね」


 トルバランは僅かに動揺した様子ですぐに手を離す。

 引っ込めた慱飯の手は、少し赤くなっていた。擦ると、鈍い痛みがじんじんと主張してくる。


「憑依というのはね、皮膚感覚がないんだ。西人の体は調整がどうも難しくてね...アイザック、冷やすものを持ってきたまえ」


「い、いえ、それは大丈夫。怪我はありません。苦労なさっているんですね」


 何度か閉じて開いてを繰り返せば、一瞬の痛みは直ぐにナリを潜めた。


 それぞれが解散をする様子を見ながら、一つ目の猫が減っていない慱飯の紅茶をぺろりと舐めた。

 どうやら、もう充分冷めている様子である。

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