第9話

 目を開いたのは、夢の中であった。

 どことも分からない天井だ。慱飯は状況を把握するためにぼんやりと目を泳がせる。

 ここはどこで、今自分は何をしているのか。全身は動かず、柔らかいベッドに横たわっている。そうだ、ここはブレンさんの、と声を漏らそうとして、声すら自由に出ないことに気がついた。


 視界の中心に、黒い影がぬっと飛出した。横になった慱飯を覗き込むそれに焦点を定める。


(三つ目の、猫)


 動物の猫というよりも、猫の耳がついたローブをすっぽり被っているといったほうが正しい。人のような影でありながら、顔がある位置は真っ暗に塗りつぶされ3つの眼球が浮かんでいた。

 それらすべてが、慱飯を見つめている。


「今夜、マリアの家にきたまえ慱飯くん。君を歓迎しよう」


 それだけいうと、3つ目の猫は慱飯の眉間に人差し指を当てる。お前は何なんだ、と声を上げるまもなく、彼の意識はまた、ストンと落ちた。




「おい!」


 目を覚ました慱飯は、勢いよく飛び起きた。汗が全身を伝い、浅い呼吸を繰り返す。心臓がバクバクと音を立て、熱く沸騰した血液が勢いよく駆け巡っていた。


「はぁ...はぁ...な、何だったんだ、あれ」


 奇妙も奇妙、昨日の猫は見たこともない容姿であった。

 酷い疲労感を抱えながら窓から外を見やると、すでに日は高く登っていた。熱くなっていた慱飯の体が、サァっと冷めていく。


「寝坊だ!」


 慌ただしく支度をし、ブレンダンの所へ走る。店には何故か客が一人もおらず、慱飯は小首をかしげた。


「あれ、タンパンさん。どうしたんです?そんな慌てて」


 エプロンをかけたブレンダンが、不思議そうな顔をしていた。慱飯の服がよれていることに気づくと、少し笑って手早く直していく。


「あ、すみません...酷く寝坊してしまって、あの、お店は」


「えっ何言ってるんですか、今日は日曜日ですよ。定休日です定休日!」


 そういえば、店の常連であったダニエルがそんなことを言っていた気がする。この街は日曜日は休むのだと。

 今は12月末、店を開ける前に狩猟に出るブレンダンも、今日ばかりはゆっくりと起きたらしい。


「は、はぁ、すみません」


「あはは、少し遅い朝ごはん、出来ているので一緒に食べましょう」


 この国では、朝からスープや飲み物で腹を満たす。当然パンもあるが少量だ。コーヒーを飲みながら、ブレンダンは思い出したように話し始めた。


「そういえば、1つトルバランについて忘れてたことがあって」


「?」


「黄泉がえりの話です」


 この食卓では希少なパンを食べる手が止まった。

 黄泉がえり。人間である限り死は恐ろしい物で、死の行く末を綴った話はどの国でもよく好まれている。


「随分昔、赤い目をした少女が病で亡くなったそうです。埋葬の準備のため外の放置していたら、そこにトルバランという猫の悪魔がやってきて、あっという間に遺体を蘇生させた。結果、少女は別人のようになり、人を襲う化け物になってしまった...概要はこんな感じです」


 民話というのは、基本何かを忠告するために作られる。

 赤目の少女の行き着いた先は、いわゆるゾンビだ。外に死体を放置しておくとなにかと酷い病が蔓延するから、さっさと埋めるか燃やせ。そういう話だろう。


「酷い話があったもんです」


「ふふふ、タンパンさん。これだけじゃないんです、似たような話がまだあるんですよ」


 ブレンダンの目が楽しそうに光る。


「よく似たものでは、悪魔が墓の中の乙女を掘り出して腐った体を取り替え、その後蘇生した。なんて話もありますよ。悪魔ってだけでトルバランとは限らないんですが...」


「詳しく聞いてもいいですか?」


「もちろんです」


 昔、悪魔と娼婦が恋に落ちた。

 しかし、悪魔は誤解から彼女を裏切り突き放し、娼婦は悲しみに暮れてしまった。いつしか娼婦は病にかかり、街中の人に惜しまれて亡くなった。

 悪魔は街に戻り娼婦が亡くなったことを聞くと、彼女の墓の前で咽び泣き、墓から遺体を取り出して腐った彼女の肉体を別の娼婦と取り替えて、蘇生してしまった。

 悪魔の愛した彼女は別人のようになり、二度と元の彼女は戻ってこなかった。

 めでたし、めでたし。


「その話、誰から聞きました?」


「赤目の少女は風の噂で、墓の乙女はアイザックさんです」


 全くめでたくない話だ。しかし、慱飯にとっては砂の中から金を見つけたようなお伽噺。


「彼に、もう少し詳しく伺いたいですね」

 

 脳裏にチラつくのは、腐敗した百合の足、沈み込む手の嫌な感触、腐敗の匂い、切断しようと振り上げたアイザックの手斧の光。

 冬が開けてしまえば、もうこの街を去らなければいけないことは、慱飯も理解している。しかし、友人の足のことを考えると、後ろ髪を引かれる思いだった。


 もし、あの足を治せたら、百合は喜ぶだろうか。


「タンパンさん、じゃあ、今日会いますか?」


「えっお会いできるんですか」


 今日は日曜日。アイザックが言葉を教えているという場所も、きっと休みのはずだ。


「ええ、アイザックさん。俺にだけ特別、日曜に言葉を教えてくれてるんです」


 特別、という言葉を強調したのは無意識だろう。嬉しそうに微笑むブレンダンに意識を向けないようにしながら、慱飯は頷いた。


 そういえば、あの1つ目の猫がいない。

 支度のために部屋に戻った際に探してみても、抜毛一本すら見当たらず、慱飯は首を傾げるばかりだった。




「ブレン君と、あなたは」

 

 ブレンダンにつれられ、訪れた場所は街の隅。暗がりに立つその家は、なんとなしにマリアの家を彷彿とさせる。出てきたアイザックに一礼をする。


「どうも、お久しぶりです。少しお話したいことがありまして」


「彼の授業の後でも構わないか」


「もちろん、そのつもりです」


 二人は居間で授業をするようで、慱飯は客室に通された。

 正反対のように見えるが、揃うとどこか親子のような雰囲気を持っていた。

 アイザックはいつもより声色が柔らかい。眉間の皺が少なく、時折微笑むことさえある。


(あの人、笑えたのか)


 慱飯が驚くのも無理はないことだった。

 彼はアイザックの顰めた顔しか、今の今まで見たことがなかったのである。

 二人とも、楽しそうだ。


 居間から少し離れた場所で盗み見ていたが、ふと足元を見ると、一つ目の猫が慱飯の足元にじゃれついていた。


「お前、どこいってたんだ」


 ひょいと持ち上げると、小さな声で嬉しそうに鳴いた。仕方ない、このままでは気付かれるので、慱飯は客室へと戻る。


「にゃあ〜」


「はいはい、撫でろってことだろ」


 ソファに座ると、猫は慱飯の膝に飛び乗りもう一歩も動かないという様子で座り込んだ。頭を撫でてやると、喉を鳴らして甘えてくる。

 昨日水を与えただけなのだが、妙に懐っこい猫だ。


「タンパンさん、終わりましたよ〜」


 いつの間に時間が経ったのか、ブレンダンが扉をノックする音が聞こえる。ドアの前に行こうと立ち上がると、1つ目の猫は軽やかに飛び降りた。


「お疲れ様です、ブレンさん」


「俺は帰りますが、タンパンさんはお帰りはいつ頃になりますか?」


「日が暮れる頃には」


 ブレンダンは、優しく微笑んで分かりました、と頷いた。周囲を一瞥するが、またあの猫は行方不明である。

 手にも服にも、毛などは一切ついていなかった。


 居間へと通されると、暖かな紅茶が用意されていた。

 正面に座るアイザックに向けてお礼をいう。紅茶は、この国では高級品だ。


「待たせたな」


「いえ、こちらが急に押しかけたので」


 出された紅茶には手を付けず、慱飯はにこりと微笑んだ。


「ブレンさん、お勉強が好きなんですね」


「ああ」


 彼のことを思い出したのか、少しだけアイザックの表情が柔らかくなる。まるで子供を想う親のような顔だ。


「ここではいつも勉強を?」


「時間がある日曜日だけだ。しかし、他の生徒よりもずっと伸びがいい」


「ええ、お店にいても、彼の様子はよく伝わってきますよ。街中の人に愛されている。穏やかでいい子ですね」


 アイザックは頷いて、紅茶を一口飲んだ。

 整った顔の彼はそれだけで様になる。


「昨夜、彼と民話やら童話やらの話をしまして」


「彼はそういう類の話を好むからな」


「ええ。少し気になったのですが、この街はどうにも不死やら蘇生やらの話が多く感じたんです、地域柄ですかね?」


「そうだろう、他ではあまり聞かない」


「アイザックさんに教えていただいた話もあるそうで」


 アイザックは僅かな間、思案するように動きを止める。

 紅茶をもう一口飲む頃には、何時ものように眉間に皺がよっていた。


「彼、アイザックさんのことをよく尊敬しているようですね。教えて頂いたことを嬉しそうに話してくれるのです」


「喜んでいるのなら何よりだ」


「俺、その話に少しだけ興味があるんですよ。もう少し、詳しく教えて頂けません?」


「...墓の乙女の話だろう、あなたが聞きたいのは」


 意外にもあっさりとその名前が出てきたことに、慱飯はわずかに目を丸くする。


「よくわかりましたね」


「彼にはあの話しかしていない。ブレン君はきちんと内容を覚えていたか?」


 アイザックは、少々機嫌が悪そうな声色である。

 話を大まかに伝えている間も、彼はじっと揺れる紅茶の液面を見つめていた。


「そうか、記憶していたか」


 本当に良い子だ。

 アイザックのつぶやきは、慱飯に届く前に空気の波に阻まれてしまった。


「何が聞きたい」


「あの話と、トルバランとの関係性です」


「なぜ関係があると思った」


「よく似たもので、赤目の少女という話があります。そこに出てくる猫の悪魔は、トルバランという名前でした。加えて、葛木薫の遺書にあったトルバランについての記述」


 アイザックがようやく慱飯を視界に入れる。


「3つ目の猫という表記がありました」


「そうか」


「これらをまとめると、トルバランというのは3つの目を持った猫のような妖怪で、死者を黄泉がえらせることができる、と考えています。それなら、墓の乙女に出てくる悪魔もトルバランなのかなと思って」


「なぜ」


「結果がよく似ているからです。墓の乙女に限り悪魔の容姿について語られていませんが、死者を蘇生するという点、そして蘇生者は別人のようになる点で赤目の少女と瓜二つ。だから、トルバランについての話なのではないかと思いました。違いますか?」


「なぜ私に聞く」


「墓の乙女の出処が貴方であるし...なにより、貴方が最初に葛木薫の幻覚について言及したからです」


「そうか」


 アイザックは揺れる液面を見ながら、ふっと笑って。


「合っているよ」


 と零した。

 ひとまず、慱飯は胸をなでおろす。何も知らない、と否定されてしまったのなら、もうトルバランについてこれ以上の情報を望めないからだ。

 夢のこともある。歓迎されているとしても、事前準備無しでは丸腰で戦場に行くようなものだ。


「あなたは何故、それにこだわる」


「え?」


 アイザックの仄暗く蒼い瞳が、慱飯の赤い瞳を貫く。


「あなたが望む技術を持っていないかもしれない。そもそも本当にいるかもわからない。そんなお伽噺を、何故追っている」


「それはあなたが...」


 百合の脚を治そうと考えている時に、あなたが独り言を漏らしたから。だが、慱飯は言葉を飲み下す。


「私は独り言を言っただけ。そんなものに踊らされているなんて」


 滑稽な自覚はあった。

 旅商人であるならば、目先の旨い話に飛びつく前に出処を掴まないといけない。曖昧な視界で突っ走れば、必ずや足を取られるのだ。

 まさか、この老いた紳士に一杯食わされただけなのか?言葉に詰まってしまった慱飯は、下唇を噛む。


「あなたも、花に魅入られたな」


 同情したような、呆れたようなその顔は慱飯を混乱させる。


「墓の乙女は現実の出来事だ」


「現実?」


「どうした、それを望んでいたんだろう」


「元となる話が...あるのかと思っていたので」


「全て、ブレン君に伝えたとおりだ」


「それならトルバランは、いるんですか」


「ああ、いる」


「もっとトルバランについて詳細なことを知ってますよね、お願いです。教えてください」


 思わず身を乗り出した慱飯を見ても、アイザックは片眉すら動かさなかった。


「言えない」


「言えない、とは?」


「私には発言が認められていない」


「どういうことですか?」


「言葉通りの意味だ」


 曲解も誤解も許さない端的な答えは、慱飯にとってはありがたいものであった。しかし、あまりにも直球なそれが、僅かな恐怖を生む。そして、躊躇を生む。


「お、俺は、夢で3つ目の猫に会いました」


「ああ」


「今夜、マリアさんの家に来いと」


「そうか」


「間違いなければ、トルバランだと思います」


「違いないだろうな」


 何だか慱飯は、深い深い泥沼に自ら脚を取られているような気持ちであった。

 偶々奇妙な夢を見た、それだけのことであるのに、アイザックに肯定されると、本当に自分は呼ばれているのではないかと錯覚してしまう。普段の彼なら商売の種にもならない、馬鹿馬鹿しい、と笑い飛ばすだろう。


 慱飯が己の正気を疑うのは、当然であった。


「あの、アイザックさん。今夜、マリアさんの家へ連れて行って貰えますか」


 彼女の家に行くのは、夢のことを確認するだけのことだ。

 平常を装ったはずの声は、僅かにだが震えている。


「...タンパンさん、少し落ち着ついたらいい」


 アイザックは、暗く濁った瞳のまま、紅茶の液面を見つめていた。


「紅茶を1杯、楽しむくらいの時間はあるさ」


 にゃあん、と何処かの暗闇で1つ目の猫が鳴いた。

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