第8話
「タンパンさん、そろそろお店を閉めましょう」
机を拭いていた慱飯へ声をかけたのは、あの穏やかな雰囲気を持ったブレンダンだった。
遺書の翻訳が終わった以上、慱飯はあの家へ留まることを居心地悪く感じ、翻訳が終わった次の日の朝に転がるように家を出てきてしまった。
しかし、いつの間にか季節は冬。他の町まで雪の冷たさに凍える羽目になるより、一旦この街に留まることに決めたのだ。
訳を知ったブレンダンは、快く迎え入れてくれた。葛木薫も一時期勤めていたというこの店は、どうやら常に人手不足らしい。
慱飯が器用に掃除や接客を行うと、彼はたいへん喜んでいた。かくして、慱飯は冬を越す宿を手に入れたのである。
「あぁ、そうだブレンダンさん」
「ブレンでいいですよ」
「それではブレンさん、ちょっと昔話について聞きたいことがあるんですが」
店を閉め、住居スペースで夕食をとっている最中のことだ。コーヒーを飲みながら、ブレンダンは不思議そうに首を傾げた。
「昔話?」
「前に仰っていた、トルバランのことについて」
「ああいう話、好きなんですか?」
「まあ、そんな感じです」
まさか、薫の幻覚について調べているなど正直に言うことはできない。曖昧な返事をしてその場をやり過ごす。
「トルバラン...よくあるブギーマンの民話ですよ。母親が子供を躾けるために使う架空のオバケです。夜寝ないと連れ去られるっていう、聞いたことありません?」
「ここではクロックミティーヌと言われているとか」
「あ、そっか。前言いましたものね。ブギーマンは地方によって名前が違うそうです、容姿とかもまちまちで」
「ミティーヌは手袋の...トルバランは?」
ブレンダンはうーんと右上を見つつ記憶を探る。
「黒く恐ろしい化け物のような男が、トルバという袋で子供を詰めて攫うって話です」
「トルバランが持ってる袋だからトルバ」
安直、という言葉はなんとか飲み込んだ。
「もう少し詳しい容姿とかわかりません?」
「コシチェイの系譜とか、タスラムが同一視されてるっていうのは記憶にありますけどね...あ、コシチェイはローブを被ったお爺さんで、タスラムは屋根裏とかに住んでる、黒い毛の生えた生き物です」
「はあ、詳しいんですねぇ」
「ファンタジーな話なんですけど、実は結構好きで」
あはは、とブレンダンが朗らかに笑う。
この街では彼が一番ブギーマンについて情報を持っているようだった。他の客にも尋ねたことはあったが、そんなおとぎ話覚えちゃいないと笑われるのがオチである。
「トルバランとかいう生き物は、他に特徴があったりしませんか?例えば、目が3つだとか、猫っぽいとか」
「え、目が3つ?いや、それは聞いたことないですね」
彼は暫く考えていたが、やっぱり記憶にないです、と肩を落として見せる。だが、すぐにニヤッと笑った。
「教えてください、何を知ってます?」
ぎょっとしたのは慱飯ほうだ。目に好奇心を随分溜め込んだブレンダンが机から身を乗り出してきた。首元の海月がチャリ、と音を立てて揺れる。
「お、落ち着いてください、なんですか急に」
「この街あんまり話とかが出回って来ないんですよ。なにか新しい話を知ってるんでしょう?教えてください!」
「いや、そこまで深くは知りませんよ。ちょっと薫さんのノートに書いてあった程度で...」
「へぇ!詳しく!」
「だから座ってください、食べ物が服に付きますよ!」
物語のことになると、いつもの穏やかな雰囲気は鳴りを潜め大変に押しが強くなるようだ。お恥ずかしいところを、と頭を搔きながら、しかしその目の奥にある期待はまるで消えていない。
慱飯は書かれていたことを幻覚ということは伏せて彼に話す。新しい情報といえば容姿だけではあったが、それでも彼は酷く嬉しそうだった。
「3つ目の猫...へぇ、奇妙ですね」
「毛皮の色はわかりませんよ...?」
「ふふふ、想像して楽しむものなんですよ、こういうのは。だって、どうせ正解なんてないんですから」
民話とはその実、伝言ゲームである。たった数人経由しただけでも内容は変化していくのだから、彼の言う通り正解なんて存在しないのかもしれない。
「それもそうですね」
「タンパンさん、別の話はないんですか?慱飯さんって遠くから来られたんでしょう、民話でも童話でもいいので、お話を聞きたいのです!」
「わかりました、わかりましたから身を乗り出すのはやめましょうね!」
結局、森でマリアと相手をしていたときとそう変わらない。ブレンダンは慱飯が話す御伽噺に実にキラキラと輝く目を向けながら聞き入っていた。
若干疲労は感じるが、永遠のマシンガーントークよりずっといい。
「何で人魚姫はそんなに悲しい終わり方なんですかぁ...」
「俺に言われてもな...」
人魚姫の童話でハラハラと涙を流す彼は、きっと恐ろしく純粋なのだろう。感受性が豊かであることは悪くはないが、ここまで激しい感情の波は疲れないのだろうか。
別の話題を求めた慱飯が、目に止めたのは、彼の海月のネックレスだった。
「そういえば、綺麗なネックレスですね、それ」
「ああ、これですか?母の形見なんです」
「お母様の」
「ええ、二人が行方不明になった後に、アイザックさんが持ってきてくれたんです。二人が亡くなったのは、森の中だったようで」
「たしか、ダニエルさんがブレンさんに彼を紹介したと聞いたような」
陽気で口の軽い、この店の常連ダニエル。
豪快な彼の笑いが、脳を通り過ぎた。
「あはは、そうですよ。正確には、アイザックさんを紹介してもらってから、すぐ。」
ブレンダンは大事そうに海月のネックレスを手で包み込んだ。
「ネックレス自体は、タンパンさんのような旅商人の方から購入したそうです。結構作りがしっかりしていて、デザインが美しいので母が気に入ってました」
シンプルなデザインだが、可愛らしいアクセサリーはたしかに婦人に好まれそうだ。ブレンダンがつけていても、あまり違和感がない。
無意識に、慱飯は短刀のことを思い出していた。あれも彼と同じように、亡くなった恩師から譲り受けたものだ。この世の何よりも信用できる、己の最後の牙だ。
「母は
「思い入れがある品物なんですね」
「ええ、本当に、アイザックさんがこれだけでも持ち帰ってくれてよかった...」
アイザックの話になると彼は酷く嬉しそうな顔をする。その瞳の奥に見えるのは尊敬、敬愛。それほどまでに、彼の中で存在が大きいのだろう。
慱飯はなにとなしに、彼から目を逸らした。
「ああ、そろそろ片付けなきゃですねぇ」
ふと見た時計は、食事終了時間をゆうに過ぎていた。強引ではあったが、致し方ない。はっと我に返ったブレンダンと共に急いで残りを片付ける。
しかしその実、もったりとした手付きだった。なにせこの国の食べ物は硬い。固いものを食べると、腹が膨れるからである。
「さて、この後はいつもなら時間をおいて百合ちゃんのところへ行くわけだけど...」
部屋に戻ってみるも、手持ち無沙汰だ。この家には百合はいない。やることがない。短刀の手入れをしたところで慣れた作業はすぐに終わってしまうのだから仕方がない。
ベッドの上に腰掛けた。木の軋む音がする。
慱飯は、いつの間にか葛木薫の遺書とノートに書かれていた一文を思い出していた。
三つ目の猫が私を見ている
猫の目が怖い、助けて
薫は何を考えて、これを書いたのだろうか。
「そういえば、百合ちゃんも似たようなことを言ってたなぁ」
2足歩行で3つ目の猫。
そんな化け物がいるのならば、すぐさま騒ぎになるはずだ。慱飯は考えながら、ベッドの上で寝返りを打った。
「俺を怖がらせようとして言った、とか」
しかし、その割には態度が落ち着かなかった。
「ああいう態度をアイザックさんと打ち合わせしてたとか」
打ち合わせの理由がわからない、やったとしても目的が意味不明すぎる。
「飾り物がそれっぽく見えたとか」
あの部屋は百合と周りの本以外に荷物がない。当然、壁にも窓以外、カーテンさえもない。
「...まじで幻覚見えてた、とか」
トントン、と無意識に胸を2度叩いた。その胸の内に、寒気を感じたからである。己を落ち着かせるこの癖は、あの家にいる間は殆どしていなかった。
「まっさかぁ」
わざと軽く笑い飛ばして、毛布に包まった。毛布は暖かく包み返してくれる。
3つ目の猫など存在するわけがないのだ。彼は幽霊だとか神だとか天使だとかは大きな声では言わないが、信じていない。現実に存在するのは、己の器量と時の運のみである。
「存在するわけがないのに、なんでアイザックさんは幻覚のことなんて言ったのかな」
薫の幻覚、百合の呟き、アイザックの指摘。どれもこれも、3つ目の猫の幻覚を指し示す。
「私は変か、か」
彼女は、慱飯が幻覚を見るのは変だ、と言ったあとに尋ねたのだ。
日常に溶け込んでしまったものは、他人に指摘されなければ異常とは気付きづらい。例えば、百合が躊躇なく見せた脚のように。
仮に、百合が薫と同じ幻覚を見ていたとしたら。そして、幻覚が見えることはおかしいと慱飯に指摘されるまで気付かなかったとしたら、自分が変なのかと疑う言葉にも納得がいく。
3つ目の猫は存在するか否か。
いつまでも、思考が堂々巡りだった。
「...なんか、疲れてきたな」
兎に角、今は別のことを考えたかった。同じことの堂々巡りでは、良い考えが浮かぶとは思わなかったから。
「顔でも洗うか」
のっそりと掛毛布から体を起こす。冷えた空気が相まって、余計に目が冴えてしまった。庭に出ると、満点の星空が彼の目の中に入る。
輝くそれらを見て、ふと思い出した。
「ああ、そうだ。百合ちゃんに魚持ってくって約束したな」
酷い話だ、と慱飯は一人苦笑した。今はめっきり魚は取れないだろうし、干物を持っていったところで嫌な顔をされるだけだろう。
百合には何となく黙って出てきてしまった。言ってしまったら、慱飯本人が家から離れがたい気持ちが出てきてしまう気がしたのだ。
(アイザックさんは保護する義務がある...って言ってたから、大丈夫だろうけど)
部屋を出る間際、時計の時間は、午前2時10分だった。
「さむ」
空っ風が服の隙間を抜けていく。井戸の水を汲み上げ、透き通ったその水を覗き込む。若干の躊躇のあと、手を入れようとすると。
──にゃぁん
猫の鳴き声がした。
驚いて周囲を見ると、井戸の縁に一匹の黒猫が座っている。しゃんと姿勢を伸ばしたその猫は、1つ目の奇形であった。
3つ目の猫ではなかったことにほっと安堵と共に胸を叩くが、それでも奇妙な容姿にあることに変わりない。
「おまえ、いつの間にいたんだ?」
「にゃあ」
黒猫は警戒することなく、テシテシと慱飯の手を叩く。
随分と人馴れした猫のようだ。混じり気のない黒の毛皮は月光さえなければ、闇に紛れることすらできるだろう。
「もしかして、水がほしいのか?」
慱飯が水を掬い差し出してやると、チロチロと舌を出して水を飲み始めた。もういいかと動こうとすると、片前足で動くなと制される。
「俺も顔洗いたいんだけどなぁ」
猫は慱飯を一瞥しただけで、またチロチロとしだした。その姿を暫く見ていたが、飲み終わるや否や、今度は手に頭を擦り付け始めた。
「ああちょっと、濡れるからさぁ」
手布で拭って頭を撫でてやると、喉を鳴らして大人しくしている。撫でるのをやめると、1つしかない目を開いて無言で訴えかけてきた。
「お前、どっから来たんだ?この目だと色々大変だろうに」
生まれついての奇形であろうに、それを全く意に介さない様子である。慱飯の手に甘える様子は、普通の猫と大差ない。
立ち去ろうとすると足元にちょろちょろと纏わりついて来る。
「分かった分かった、今晩だけ家に入れてやろうなぁ」
持ち上げてみれば、まるで空気のように軽い猫だった。思わぬ軽さに、驚きを隠せず子猫を見た。
特別騒ぐような様子もなく、慱飯の胸の中で寛いでいるのだから、元はどこかの飼い猫かもしれない。それが真夜中の冬に放り出されているのだから、心細さは想像できるだろう。
「...明日、ブレンさんに言っておかなきゃな」
部屋につくなり我が物顔でベッドへと降り立つ猫に苦笑いを向けながら、自分もそこへ座り込んだ。
占領するかと思われた猫は、シャンと背を伸ばして座ったまま、ベッドをぽんぽんと叩いた。どうやら入れという催促なようだ。
「はいはい、危ないからちょっと、どいときなねぇ」
促されるままに入れば、猫は満足げに尻尾を揺らした。腹の上にいるはずだが、気配だけで重さは感じない不思議な猫だ。
少し気になって慱飯が猫を見ると、いつの間にか近付てきた猫の片前足が軽く彼の眉間に置かれ。
彼の意識は揺蕩う間もなく、落ちた。
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