第7話

 葛木薫が、百合である。


 その現実を前に、慱飯は考えあぐねていた。

 葛木薫は自殺をしたはずだ。生きていない。とすれば、間違えているのはマリアのはずだ。生きている百合を、薫と間違えていると考えれば説明はつく。


 だが、百合が真っ当な人間だと断定もできなかった。


 百合は物を食べない。

 頭からに生えた花々から人の話を盗み聞く。

 足がなく、あの部屋から出た経験が無いのにも関わらず、薫の国の言葉を断片的にだが知っている。


 薫と百合をどうしても結び付けられない。けれど、完全に否定もできない。


「...まさか、死体が動くわけもないし」


 慱飯は、無意識に百合の部屋の前に来ていた。マリアの告白を聞いたのはまだ日が出ていた頃だったから、百合はこの現実を知らないはずだ。彼女に伝えても良いものだろうか。


「あれ」


 心の内が決まらないまま扉の取っ手に目を向けようとすると、扉がわずかに開いていることに気がついた。こんなことは初日以来であったから、先客でもいるのかと慱飯は僅かな隙間から部屋を覗こうとして。


 まさに今、手斧を振り上げた男を見た。


「ッ!」

 

 気づいたときには、振り上げられた男の左手を逆方向へ蹴り飛ばしていた。握られていた手斧が力を失い滑り落ちる前に、男の首に慱飯の短刀が当てられる。


 ゴン、と手斧が大きな音を立てて床に転がった。


「一体何しているんですか!」


 慱飯の喉から、怒りを含んだ低い声が飛び出した。男はもとより膝を付いた体制であったが、特別振りほどこうともしなかった。驚きのあまり、振り解けなかったというほうが正しいかもしれない。


「あの斧、どうするつもりだって聞いてるんですよ、アイザックさん」


 男...アイザックの前には、百合が横たわっていた。瞳は閉じられ、スカートが膝上まで捲られている。

 軽く短刀を引くと、僅かに皮膚が切れ血が流れる。ひゅ、とアイザックの喉から息が漏れるのが聞こえた。


「...ん?」


 その僅かな声に反応して、慱飯は百合の顔に目を向けた。想像通り微睡む百合は眠そうな瞳を揺らし、周囲を見回してようやく彼らの顔を見つける。


「アイザック...と?」


 異様な二人の雰囲気に一気に覚醒したのか、目をぱちくりとまたたかせた。その顔が、困ったような声が、慱飯の緊張した心を撫ぜていく。


「やだ、タンパンのえっち」


 と、百合は恥ずかしげに脚を隠した。

 よく見れば口角が僅かに上がっている。


「た、慱飯、刃が」


「あ、すみません」


「とりあえず、離してくれ」


 うっかり切り込みが深くなってしまったようだ。


 アイザックの声色も動揺を残すが、幾らか落ち着いた様子である。どうやら錯乱して奇行に走った訳ではないことが伝わってきた。

 慱飯はゆっくり離れると、彼が動く前に手斧を回収する。


「彼が手斧であんたを害しているように見えたんだけれど」


「ああ、なるほどね」


 納得した様子の百合に対して、慱飯は眉を顰めたままだった。手斧は重く、きっと振り下ろされれば無事では済まないはずなのに、何故こうも怯えの色が見えないのだろうか。

 予想と違う反応に困惑が隠せない。


「タンパン、アイザックは私を出鱈目に殺そうだなんて考えてはいないよ。取り敢えず、それを彼に返してあげてほしい」


「どうしてそう言い切れるのかなぁ?」


「スカートが捲れているから」


 上半身だけ起こした百合は、ポンポンと自らのスカートを叩いた。


「...もうちょっと詳しく」


 目で説明の続きを促された百合は、くつくつと笑いながらアイザックを見た。託された彼は、喉の血を拭き取りながら答える。


「百合の足を切ろうとしていた。以上だ」


「なんだって?」


「こら、君は言葉が足りないのが悪い癖だぞ」


「はあ...脚の先端を見ろ、慱飯」


 アイザックが指さした脚は、先端から膝のすぐ下までの皮膚が黒ずんでいた。僅かに香る腐敗の匂いが慱飯の鼻を掠める。促されて少し触ると、沈み込むような嫌な感覚が慱飯の手に帰ってきた。

 思わず、顔をしかめる。


「百合の脚は時間が経てば立つほど腐敗する。腐敗の進行を遅らせる方法は、切るしかない」


「荒治療に聞こえるかもしれないが、これが一番効果的なんだ。彼は私が眠っている間に、治療を済ませてくれようとしていたんだろうね。彼は私が起きている時間が少ないのを気にしてくれているんだ」

 

 必要最低限しか言葉を発しようとしないアイザックに代わり、百合が補足する。彼が眉を寄せて顔を背けたあたり、図星なのは明白であった。


「前もこんなことが?」


「ああ。でもその時はしっかり説明された。初めてだったからね」


「脚は生まれつきと言っていたじゃない?」


「物心ついたときには、もうくるぶしから下は無かった。初めてアイザックに腐敗の説明されたとき、少しずつ削ることに決めたんだ」


「そんな、痛いだろうに」


「痛い?」


 百合が小首を傾げた。目は慱飯から自身の足に戻され、黒ずんだ先端から太ももまでを指でなぞる。


「痛みとは、何だい?」


「えっ」


「慱飯、彼女は皮膚感覚がない」


 皮膚感覚に含まれるのは、触覚、痛覚、温覚、冷覚。その全てを百合が感じられないと知っても、当たり前に感覚を持つ慱飯には上手く飲み込めない。

 少なくとも、今まで百合はそんな素振りを見せなかったし、慱飯が違和感に気付くことも無かった。


「痛くないのは良かったけど...」


「ああ、痛くないよ。ご心配ありがとう、さあ、その斧を彼に渡して」


 僅かに戸惑ったが、慱飯はアイザックに手斧を渡すほか無かった。先程と同じように手斧が振り上げられる。ダン、と大きな音を立てて、百合の腐敗した脚が切り落とされた。 

 もう、膝から下がない。血は一滴も出なかった。


(...綺麗だな)

 

 西人にしびとの単純な力は、東人ひがしびとの力を遥かに上回る。たった1度で叩き斬られた断面は、骨も巻き込んでいるにも関わらず美しかった。


 アイザックはテキパキとその場を片付けると、百合を抱き上げて元の椅子へと座らせる。礼を言っていつも通り本を捲り始めた百合を確認すると、すぐに部屋から出ていった。慱飯は彼を追いかける。


「アイザックさん」


「何だ」


「いつからご存知だったんですか」


「何を」


「彼女の脚のこと」


「それは...」


 口籠ったアイザックが手首を擦ったのが見えた。隠しているようだが、不意の攻撃は衝撃が強かったらしい。


「...捻挫などはしていませんか」


「気にするな、誰だって斧を振り上げた様子を見たら驚く。それよりも」


 アイザックは体ごと振り返る。やはり、並んで立つと彼の大きさがよくわかる。

 眉間に皺を寄せているのは癖なのだろうか、威圧的な雰囲気を持つ彼はじっと慱飯を見下ろした。


「あなたが百合の友人で良かった」


 へ、と拍子抜けした声が慱飯から漏れた。

 アイザックは、百合の部屋に通じる扉を一瞥して言葉を続ける。


「私には、あれを保護する義務がある」


「百合さんをですか?」


「ああ、だが私は同時に、そして優先的にマリアも守らなければならない。あれが歩き回らず、昼間は人形のように眠っているからまだいいが、それでもこうして接するにも限度を感じている」


 明るい月光が、アイザックの顔を照らす。威圧感が覆い隠していたが、よく見ればその目元にはクマがあり、疲れ切っているようにも見えた。


「あなたは、私があれの足を切ろうとしたときに本気で怒っていた。必要であれば、私の首も狩っただろう」


 慱飯は、否定も肯定もせずアイザックを見上げていた。


「あれのことを想う人間が私の他にいるのならば、たとえあなたが遠い地へと行ったとしても、あれも幸せだろう。友人になってくれて感謝する」


 それだけ言うと、アイザックは慱飯に背を向けて自分の部屋へと消えていく。彼の声色には、皮肉も嫌味も含まれてはいなかった。


「あの、アイザックさん」


 彼の歩みが止まる。


「何だ」


「百合さんの足は、あのまま放って置くしかないんですか」


「切断している」


「そうではなく、切断する以外に対処はできないんですか。日が、当たらない場所に移動させるとか」


「あれが望んであそこにいるのだ」


「冷やす、とか」


「氷が手元にあったとして、あそこは良く日が当たる。溶けて腐敗を進行させるだけだ」


「か、乾燥させる、とか」


「どのような方法でだ、火であぶれとでも言うのか」


「...義足を作る、とか」


「足を作ったとこで、完成までの期間より腐る方が早い。加えて進行が止められない今、すぐに意味がなくなる」


 アイザックの言う事は全て最もである。アイデアが尽きてしまった慱飯は口を閉じてしまう。

 百合は足が今も腐り続けている。痛みが伴わないことが救いだが、その腐敗はきっと足だけに留まらないだろう。


「なにか、方法は」


 毎夜語らったとしても、会って半年も経たない、人かどうかもわからない相手である。そんな相手に執着していることを一番驚いたのは、慱飯自身だった。


「...これは独り言だが」


 急にアイザックが口を開いた。背を向けているために慱飯からは表情が読み取れない。


「葛木は、幻覚を見ていたらしい」


「幻覚?それってどういう」


「独り言だ」


 聞き返す慱飯を置いて、アイザックは早足で消えてしまった。一人残された慱飯は、頭の中で彼の言葉を繰り返す。


「おかえり」


 百合は自分の髪を弄りながら何かを考えているようだった。


「どう思う?」


「アメンボは水の上に浮いてるらしいね。脚があったら私も水面に浮けるだろうか」


「高速で走ればあるいは、かなぁ」


「ふむ、方法が見つかった暁には検討してみよう」


「えっ本気?」


「うん」


 本気らしい。

 真面目な顔して頷く百合へ、慱飯は浅瀬にしときな、と付け加えた。


「それで、君が聞きたいのは幻覚のことだろ?突拍子もない話だな」


「幻覚はいつ起こるんだい?」


「幻覚が起こる要因は様々だ。過度な疲労やアルコールや薬物依存、毒キノコの摂取による中毒、脳の病、精神障害、エトセトラ。色々な原因が絡み合って起きることがほとんどさ」


「毒キノコだけはよく聞くかなぁ」


「代表的なものに、ベニデングダケという鮮やかな赤いきのこがある。幻覚は人によるらしいが、寝たらころっと治るともある」


「アイザックさんの口ぶりからすると、別に毎回ベニ...えっと、そのきのこを食べたりしたわけじゃないんだろうねぇ」


「ベニデングダケな、あれは常用するものではないし、彼も森に住んでいる以上危険性はよく知っているはずだ」


「じゃあ幻覚っていうのは」


「要因は分からない。遺書に何か幻覚について無かったのか?」


「う〜ん...あったかなぁ」


 遺書の内容を思い起こす。あの内容は殆どが身の上話であった。随分高低差の激しい人生ではあったようだが、どのタイミングから幻覚を見ていたかまでは、分からない。


「あ」


「どうした」


「猫」


「猫?」


 何か思い出したように、慱飯は大きく頷いた。


「要因じゃないし、幻覚じゃないかもしれないけど、遺書に3つ目の猫が私を見ている、って一文があった。知ってるよね、猫。こんな耳の」


 慱飯が両手を頭につけて、耳を表現して見せる。


「3つ目の猫」


 百合は呟くなり、黙ってしまった。その目は部屋の扉へと向けられ、また迷うように目が泳ぐ。


「...なあ」


「どうしたの百合ちゃん?」


「普通の猫っていうのは、3つ目で二足歩行なのか?」


 その言葉に、慱飯はぷっと吹き出した。


「はは、葛木薫がそう書いてるだけで、普通は2つ目で4足歩行さ」


「そ、そうか」


 髪を弄り、目を泳がせる百合はどうにも落ち着かない様子であった。彼女らしくない雰囲気に、いよいよ慱飯も気づく。


「どうかしたの?」


「いや、その...」


 百合は慱飯と目を合わせようとはしなかった。


「幻覚を見るのは異常なことだろうか」


「普通は見ないよね」


「日常的に薫は見ていたんだろうか」


「かなりあっさり書かれてたから、日常って感じはしなかったけど...ただの野良猫の事かもしれないよ。ここ森だし、猫以外の物を見間違えたとしても可笑しくはないはずだ」


「見間違え...」


 そこから、慱飯が部屋に帰るまで百合の態度は落ち着きがなく感じられた。慱飯が声をかけても上の空で、時には眉間に皺を寄せ考え込んでしまう。


「なぁ」


 扉を出ようとした瞬間、百合が声をかけてくる。


「タンパン、私は変か?」


「今日はちょっと、でもいつもは普通だと思うよ」


「そうか」


 もう一度、そうか、と繰り返した声色は、なんだか妙に不安気で慱飯の印象に強く残ることになった。


「なにか、ないかな」


 翌朝、慱飯は薫のノートの1冊を見ていた。

 翻訳に役立ったそのノートたちは、きっちりと本として整理すれば充分な価値があるものだ。

 薫の国とこの国は酷く距離が離れている。活発な交流がある訳ではないので、このような翻訳本は流通が少ない。領主のようなきっちりした身分はなければ、目に入れることすら出来ないだろう。


「もったいないなぁ」


 そんな貴重なノートをパラパラと何気なしにめくっていると、ふと慱飯の手が止まった。


「あ、これ、ブレンダンさんが言ってたやつか」


 トル・ブギー。もしくはトルバランと書かれたその名前は、このノートの中で翻訳していなかったものだ。単語集とは別に、殴り書きで書かれているようである。


 汚い文字を見ていると、翻訳するのも億劫だ。ため息をつくが、アイザックの幻覚という言葉が脳裏で反芻している。

 あのタイミングで言うのだから、もしかすると百合の足を治せる手掛かりになるかもしれない。


「子供...夜...大きな...袋...」


 ぽつぽつと単語を拾っていく。

 内容は、よくある物語であった。夜眠らない子供は化け物が攫ってしまう。母親が言うことを聞かない子供を躾けるために作った怪談話。

 慱飯は、思わずクスリと笑いが込み上げてしまった。遠い遠い昔の記憶に、似たような話があったのである。どの国でも、親は子供に苦労をさせられるようだ。


「あれ、なんだこれ」


 最後の文章は、震えたような文字で小さく小さく書かれていた。


 "猫の目が怖い、助けて"

 

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