君の名を呼ぶ

シンカー・ワン

亜沙子


 四十路、厄年、バツイチの、冴えない男。それが俺。

 中堅商社に勤続二十年のベテラン、とりあえず肩書きは主任。

 バツイチの訳は可愛がってた後輩と女房が駆け落ちしたから。もう十年も前の話だ。

 付き合い出したころをいれりゃ十三年も連れ添ってきた相手が、七つも年下の男とねんごろになって逃避行。そうなるまで気が付かなかったこっちも悪いけど、多少やさぐれたって許されるよな?

 離婚したころは経緯が経緯なだけに周りも腫れ物に触るような扱いだったが、喉元過ぎればなんとやら。今じゃちょいと煙たがられてる。

 同期が順調に出世している中、在籍二十年で上を目指さないやからなんて、会社にしたら面倒くさいだけだしね。

 まぁ、それなりの成績残してるんで表立っては何も言われちゃいないが、上役の俺を見る目は雄弁だ。それが同期だったりすると尚更。

 女房を若い奴に寝取られた男って話は今も伝わってて、後輩の男連中からは情けない先輩、若い女子社員にゃ甲斐性なしって目で見られてる。

 ま、どうでもいいがね。


    §


「――津田つだ主任、お茶をどうぞ」

 耳に飛び込んできた柔らかな声に我に返る。

 PCの画面から声のした方へと顔を向けると、西洋人形のように整った顔が穏やかな笑みを浮かべ、こちらを見つめていた。

 散らかったデスクの上、邪魔にならない絶妙な位置に、温かなお茶の入った俺専用の湯飲みが置かれている。

「あー、ありがと。小笠原くん」

 仕事してるようで雑念にまみれていたことを誤魔化すように、どうにか礼をする。

「いえ、頑張ってください」

 微笑みを浮かべたままそう言って軽く礼を返し、彼女はトレイを脇に抱え給湯室へと去っていった。

 古臭い・時代遅れと言われるだろうが、うちの会社じゃ女子社員によるお茶入れが行われている。当然今どきの若い娘たちからの不満の声は絶えない。

 ただ意中の男性社員に無理なく近づける利点もあるからか、止めさせようって話にもなっていなかったり。

 ま、俺なんかは眼中にもないからお茶も頼まなきゃ入れてもらえない、頼んでもどこか嫌々な女子社員の中、ただひとり自主的に俺へとお茶を運んできてくれるのが先の彼女、小笠原おがさわ 亜沙子あさこ嬢だ。

 入社三年目の事務職。鮮やかな栗色の髪と透き通るような白い肌をした目の覚めるような別嬪さんである。

 訊けば何代か前にデンマークだかスウェーデンだかの血が入ってるそうで、隔世遺伝とやらで彼女にはそれが色濃く出ているらしい。

 家族写真を見せてもらったことがあったが、ご両親や兄妹の外見はこれでもかってほど純日本人だった。

 性格、言葉使い、人当たりと文句なく、どこの良家のお嬢様か? と思われたが、ごく普通のサラリーマン家庭だそうな。

 単純に良い育てられ方、躾けられ方をされてきた結果なんだろう。

 外見は文句無しな上に家事も得意とかで、入社当時から『嫁にしたい女子社員ランキング』第一位をキープし続けている。

 俺との接点は同じ部署ということと、新人時代の教育係をしたってところくらいだ。

 もっとも、入社当初から出来は良かったんでさほど教えることもなかったが、彼女の方はそうでもなかったらしく

「自分が今そつなくやっていけているのは、津田主任のおかげです」

 と、なにかと俺を立ててくれている。

 ……俺なんかそれほど立派な人間じゃないんだがね。


 いつものようなフロア朝礼、各セクションからの連絡事項が伝えられ、そろそろ終わりと思ったときだった、ひとりの女子社員が挙手をし明るい声で、

「中央パーテーションのロッカー上に女子一同からのささやかな贈り物が置いてありま~す。男性社員の皆様はひとりおひとつお取り下さいね~」

 てな事を言った。

 何のことやら? と思ったがふと目に入ったカレンダーで今日が二月の何日だっかを思い出す。

 そうか、バレンタイン・ディか。

 今年は直接渡すのは止めたって訳か。義理とはいえ手渡しはそれなりに嬉しかったんだがな。

 小笠原くんが入ってからは彼女が俺の担当してくれてたからなぁ。

 それまでは、外れくじ引いたって顔した子ばかりだったから、笑顔で「どうぞ」と渡されるのは気分が良かったんだが。

「――ん、今夜は予定を立てている者も多いだろう。定時で帰れるよう、皆頑張ろうっ」

 パッとフロアに広がったバレンタインムードに乗せられるかのような部長の言葉で朝礼は終わった。


 午後の三時を過ぎたころ、仕事も一区切りついたので一服するかと、PCに向かった姿勢で丸まってた背中を伸ばしていると、

「主任、お疲れ様です」

 と、絶妙なタイミングで小笠原くんがお茶を入れて来てくれた。

「あー、ありがと」

 強張った肩やら背やらの筋肉を解しながら、努めて明るい口調で礼を言う。

 小笠原くんはいつものように笑みを浮かべ軽く会釈をし、給湯室の方へと戻っていく。

 適度に凝りを解してから、のどを潤そうと湯のみに手をかける。と、湯飲みの底にふたつ折りにされたメモ用紙が挟まれているのに気が付いた。

 すばやく視線を左右に飛ばし辺りをうかがう。誰も俺なんかに気を向けてはいない。

 湯飲みを少しだけ浮かせ、小指でメモを抜き出し薬指との間に挟む。そのまま何食わぬ顔で湯飲みを持ち上げ、空いた方の手で支える振りしてメモを回収する。

 飲み終えた湯飲みを置く時、再度辺りをうかがい安全を確認してからこっそりとメモを読む。

 メモには退社後に会ってもらえないかという旨と落ち合う場所と時間、そして差出人――小笠原くん――の名が書いてあった。

 目を通したあと俺はメモを握りつぶし、ズボンのポケットへと捻り込んだ。


 定時に仕事を終え適当にぶらついて時間をつぶし、指定された場所へと俺は来ていた。

 小笠原くんの姿は……ない。約束の時間まではまだ余裕がある。

 指定された場所、会社から一駅ほど離れたところにある川沿いの公園。

 昼間なら散歩やらウォーキングやらのひと休みでそれなりに人が集っているのだろうが、陽のとっぷりと暮れたこんな時間では訪れる人も無い。

 適当なベンチに座り、ここへ来る途中で買った缶コーヒーを啜る。

 タバコでも吸ってればそれなりに絵になるんだろうが、女房に逃げられてからすっぱりと止めていた。

 ツルツルのスーツにヨレヨレのコート姿で二月の風に身を竦ませながら、対岸のネオンに照らされた川の水面を眺めつつ考えを巡らせる。

 小笠原くんが、俺と、わざわざ会社の外で会おうとするその理由を。

 今日という日でパッと浮かぶものはあった。

 が、あまりにバカバカしく現実的じゃないその考えをさっさと頭から追い出し、ものを探してみる。

 あれこれと頭の中でいくつか並べ社内でしにくい相談事、おそらくは社員の人間関係かなにかだろうと、もっともらしいものを選ぶ。

 じゃあ、その線での受け答えでいいかなと結論付けたところで一息つこうと缶をあおるが、空だった。

 やれやれと腰を上げ、空き缶を捨てるついでにもう一本と、自販機へと歩き出したとき、東の空にネオンライトとは違う光の明滅が目に入り、少し遅れて街のざわめきをぬって低い破裂音が耳に届く。

「……デスティニーランドのナイトパレードの花火ですね」

 ぼやっと東の空を眺めていた俺の背中へと声がかかる。

 待ち人来たれり、か。

 手に持った空き缶をコートのポケットに突っ込んで俺が振り向くと、小笠原くんが立っていた。

 アイボリーのフード付きコートに、濃いグレーのタートルネックのニットセーター、ワインカラーのロングスカート。私服はこんな感じなのか。

 見慣れた制服姿とは違う彼女を新鮮に感じる。

 小笠原くんは俺に頭を下げ、

「こちらから御呼び立てしたのに、遅れてしまって申し訳ありません」

 まず詫びて、それから、

「来て下さって、ありがとうございます」

 と、少しはにかんだ、だけどとても嬉しそうに見える笑顔で言った。

 彼女の笑った顔は何度も見ているはずなのになぜかひどく眩しく思えて、どぎまぎした俺は彼女から視線を逸らせながら、

「あー、いや、こっちが早く来すぎただけだから、気にするこっちゃない」

 などと照れ隠しにぶっきらぼうに言い捨てる。

「はい。――お心遣い、感謝します」

 そんな俺の心の葛藤をあっさりと見抜いたようで、彼女はさっき浮かべていたのとは少し違う、なにかこそばゆそうな笑顔を俺に向け、それから軽く礼をした。

 やれやれ参ったね。場の支配権はあちらのものだよ。

 頭を軽く振り、苦笑いをひとつ噛み殺して、俺は本題を切り出す。

「――それで、俺に何の用なのかな?」

 俺の言葉に小笠原くんは小さく頷くと、肩から提げていたバッグを開け、そこから綺麗にラッピングされた包みを取り出し俺へと差し出す。

「私から津田主任へ、バレンタインチョコです。……会社だと、その、皆さんにあれこれと詮索されてしまいそうで。……主任はそういうことを好まれないと思いましたから」

 苦笑しつつ包みを受け取り、よくご存知でと心の中で呟く。

「ありがとう。喜んで頂くよ」

 包みを受け取った手を軽く持ち上げつつ、苦笑いじゃない、感謝の笑みを浮かべて礼を言う。

「――あ、あの、じ、実はもうひとつ、受け取って頂きたいものがっ」

 小笠原くんは彼女らしくない慌てた口調でそう言いながら、これまたらしくないあたふたした様子でバッグとは別にもっていた手提げ袋に手を突っ込むと、落ち着いた色調のマフラーを取り出した。

「つ、津田主任、いつもコートおひとつで、その、とても寒そうに見えましたのでっ、す、少しでも寒さをしのげればと思いましてっ」

 テンパってる小笠原くんとは珍しい。……いや、入社当初はけっこうあったか。

 いつもは人一倍しっかりしてんのに、なんてぇないことであたふたしちゃってさ、普段の振る舞いと違うその姿のギャップに妙に親しみが湧いたんだよなぁ。

 思い出し笑いが自然と浮かぶ。少しからかってやれと悪戯心が動く。

「それも貰えるってことなんだ? ありがと」

 そう言って、まだ少しテンパリの残っている小笠原くんへと上半身を傾け、

「巻いてもらえるかな?」

 と、からかっている気持ちなど、おくびも出さずに告げる。

 言われた小笠原くんの顔が紅く染まる。マフラーを持つ手が震えていた。

 おっと。ちょっと悪ふざけが過ぎたかな? ジョークだと伝えて、体を戻すか。

「――わ」

 "悪い悪い。冗談だよ" 俺がそう言って体を起こそうとしたまさにその時、小笠原くんの両手が淀みなく動き、俺の首にはマフラーが巻かれていた。

「……これで……宜しいでしょうか?」

 顔を伏せたまま、小笠原くんが言う。

 なぜか手はマフラーの両端をつかんだままだったが。

「はは。あー、ありがと」

 思わぬ展開にバツが悪くなったが、礼だけは何とか返せた。

 傾けてた上半身を起こそうとするが、小笠原くんが握り締めたマフラーに引っ張られて傾いたままだ。

 格好だけ見れば、俺の首に彼女がぶら下がっているようである。

 さすがにこの体勢のままってのは厳しい。からかったことを謝って、マフラーから手を放してもらうべく、彼女へ言葉をかける。

「あのぅ、小笠原くん? さっきのは俺が悪かったから、手ぇ放して貰えるかな?」

 言葉は届いたのか、マフラーの引きが弱まったのでこれ幸いと体を起こす。

 起こした俺の胸へと、小笠原くんが体を預けてきたのはその直後だった。

「えっ?」

 突然のことに頭の中が一瞬真っ白になる。それでも状況を把握し、対処に動く。

「……小笠原くん?」

 俺の胸に顔を埋め、両手にマフラーの端を握り締めたままの彼女に、この行動の意味を問いただす意を含めた声色で問いかける。

 返事はない。

 深呼吸ふたつ分くらいの間を取って、もう一度。

「小笠原、くん?」

 マフラーを握り締めたまま、俺の胸に押し付けていた彼女の手に、また少し力が入った感触が伝わったとき、小笠原くんが口を開いた。

「――はしたない娘と思われても構いません。バレンタインという行事を利用することをさかしいと思われても結構です。……三年前、出会ったあのころからずっとずっと、主任のことをお慕いしておりました」

 彼女の口からこぼれてきたそれは、この場所に来たとき一番最初に思い浮かべ、ありえないと即打ち消した呼び出された理由。


 小笠原くんから俺への告白だった。


「な……なんだよ、ドッキリかい? それともなんかの罰ゲームとか? 部の皆で俺をからかおうとでもしてんの? はは……」

 軽口を叩きながら俺は視線を公園のあちこちへ飛ばす。けれど、誰かが潜んでいるようなそんな気配は感じられず、

「何方かの企みや悪戯などではありません。これは私の意思です、気持ちです。主任のことを想う、私の本心からの行為です」

 小笠原くんも似合わぬ強い口調でそれを否定した。

 言葉を出せない俺へと彼女の告白は続く。

「三年前、右も左も判らぬ私を辛抱強く、時に厳しく時に優しく指導して下さったこと、ずっと感謝しておりました。指導担当を離れてからも何かと気に掛けて下さったことや、その後も色々と助けられたこと忘れておりません。――いつのころからか、私は主任のことを目で追うようになっておりました。主任を見るだけで心が落ち着く、そんな日々を過ごして来ました……」

 これ以上は言わせてはいけない。

 いや、俺が聞いていられなかった。だから、

「そ、それはさ、刷り込みだよ。ほら、卵から孵った雛が初めに目に入ったものを親だと思うみたいなもんで」

 彼女の告白を遮るように声を出した。が、

「雛は親鳥に恋などしません!」

 初めて耳にする強い口調で、それは激しく否定された。

 自分の想いは本気なのだと。

「……この気持ちに気がついたとき、私も勘違いかもしれないと何度も思いました。優しくされたからそんな風に思い込んでいるのだろうと。でも、この三年、ずっと主任を見続けて、この気持ちは間違いではないと悟りました。想いを否定すればするほど、それがおかしいことだと気づくのです。毎朝毎夜、主任を想わない日はありませんでした。……淫らな娘と思われるでしょうが、主任を想って自分を慰めた夜が幾度もあります……」

 俺の胸に頭を押し付けたまま、言葉を続ける小笠原くん。

 それはどこか、そんな想いにも気がつかなかった俺のことを責めるようにも聞こえ、項垂れたまま俺は黙って聞いていた。


 想いの丈を吐き出しきったのか、しばしの沈黙が訪れる。

 小笠原くんの呼吸が落ち着くのを待って、俺は彼女の肩へと手をかける。手が触れると彼女の体がビクリと震えた。

 彼女の気持ちは嬉しい。こんなバツイチの、冴えない中年男をこれほどまでに慕ってくれていたのだ。

 だから尚更、彼女の気持ちに応えてはいけないと思う。

 彼女はまだ若い。これからいくらでも良い男と出会う機会があるだろう。そんな未来のある若い娘さんが先の見えない四十男に囚われていちゃいけない。

 しばらくは嘆く日々を送ることになるだろうが、時間がきっと心を癒してくれる。

 彼女が落ち着いた年齢になるころには、あんな恋もしたと思い出話にできる日がきっと来るだろう。


 だから俺は、小笠原くんの気持ちを受け入れてはいけない。

 たとえ俺が、彼女に少なからずの好意を抱いていたとしてもだ。


 腕に力を入れ、小笠原くんを引き離そうとする。それに抗うように口を開く彼女。

「……さっき告げたのは私の一方的な想いです。主任のお気持ちをなんらかんがみてはおりません。けれど、少しでも、ホンの少しでも私のことを好ましいと思っていただけているのなら……」

 そう言って彼女は今まで伏せていた顔を上げる。

 白い顔は紅潮し、両の目は涙を湛え潤んでいた。

 その潤んだ瞳で俺をまっすぐ見つめたかと思うと、ゆっくりとまぶたを閉じ桜色の唇を心持ち薄く開け、おとがいを伸ばす。

 それが何を待つ姿勢なのか、どんな行為を求める姿勢なのか、さすがに俺でもわかっている。

 でも応えられない、応えちゃいけない。

 それが彼女のためだ。それが彼女より少しばかり長く生きてる大人の対応なんだと自分に言い聞かせながら、引き離そうと肩を掴む手に力を込める。

 その時、薄く開いたままの彼女の唇が短く言葉を紡いだ。


「――賢二けんじ、さん……」


 そして彼女の閉じたまぶたの端から涙が零れ落ちるのを見た瞬間、俺は掴んでいた両の腕を彼女の肩から背に回していた。

 一瞬強張った小笠原くんの体から、ゆっくりと力が抜けていくのが伝わってくる。再び埋もれた胸から嗚咽が漏れてくる。


 何も考えてはいなかった。

 彼女の将来がとか色々と並べ立てた拒むための理由が、あの言葉を聞きあの涙を見て全部吹っ飛んでいた。

 万感の想いを込めて告げられたであろう俺の名。それが俺の取り繕った心の壁をぶち壊してた。

 応えなきゃいけない。彼女のありったけの想いに、俺も。

 抱きしめたまま彼女の耳元に口を近づけて、心を込めて告げる。


「――亜沙子」

 彼女の名を。


 彼女の体が少し震え、それから嗚咽に混じって、

「はい……はいっ……」

 と、健気に答える声がする。


 この先どうなるかわかりゃしない。

 でも、きっと俺は後悔しないだろう。腕の中の温もりにそう思う。


 遠くの空で花火が咲いた音が聞こえた。

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