とろけてしまう

oxygendes

第1話

 お菓子作りが得意なお姉ちゃんだけど、今年は特に気合が入っているみたい。

 いつもは計量カップや料理用スケールなんか使わない。ばさばさと掬ってボールに入れて手早くかき混ぜたら泡立てた卵と合わせ、型に入れたらオーブンで焼く。焼き具合もタイマーではなく焼き色や匂いで判断している。それでふわふわのケーキが出来るのだから才能があるのだろう。

 そんなお姉ちゃんが今年は精密測定器を買ってきた。非接触型電子温度計だという。手に握って使うタイプで、レストランなんかで店員さんがお客さんの額に当ててピッという音を立てるあれ。そしてそれは道具だけに収まらなかった。


「じゃあ、美紅、お願いね」

 お姉ちゃんの命令であたしは準備を手伝うことになった。お菓子作りのためのデータ取りだという。お姉ちゃんはテーブルの上に、精密測定器と氷水を入れた洗面器、そして使い捨てカイロを置いている。

「右手を出して」

 あたしが右手を差し出すとお姉ちゃんは自分の右手で握った。目をつぶって何かを思い出そうとするような表情を浮かべる。

「もっと低かったかな」

 お姉ちゃんは目を開けた。

「じゃあ、これに手を入れて」

 氷水を入れた洗面器を指さす。断らさせない頼みごとをする時の有無を言わせぬ口調だ。仕方なく手を入れると、お姉ちゃんはスマホを取り出して時間を測り出した。

「……十秒、……二十秒、……三十秒、はい、出して」

 あたしの手をハンカチで拭いて、また、手を握る。そして、何かを思いだそうとするような仕草。

「そう、これくらいよ」

 お姉ちゃんは電子温度計を使ってあたしの右手の温度を測った。

「二十七.六度ね」

 思ったより低い温度に首を傾げているとお姉ちゃんが説明してくれた。

「よく体温は三十六度って言うけどそれは身体の中心に近いところの温度なの。中心から遠ざかるほど温度は下がって、手足の先だと二十七度とか二十八度くらいなの。個人差があるけどね」

 スマホに何か記録している。きっとさっきの温度ね。

「市販しているチョコレートの多くが融点が二十八度になるように作られているのはそのためよ。手に持った時に溶けて手に付くことが無く、口に入れたらすっと溶けるように。噛んだ時にぱりっと割れることも大切ね」

 話がお菓子作りにつながった。

「私の目指しているのは手に持った時には溶けないで、口に入れた瞬間にとろりととろけてしまうチョコレート。厳密な温度設定をした特別なもの」

 お姉ちゃんが手をつないだことのある誰かさんのための特別なものってことね。バレンタインデーももうすぐだし。

「ありがとう、美紅。これで目指すものが特定できたわ。これから試行を繰り返して最適のものを作り上げていくわ」


 そしてお姉ちゃんの試行錯誤が始まった。チョコレートに入れる生クリームの量、そしてテンパリング、湯せんで溶かしたチョコレートの温度を変えながらかき混ぜていく工程のさまざまな条件を少しずつ変えながら試していっているみたい。


 そして二月十三日、お姉ちゃんの試作品が出来上がって、あたしが味見することになった。

 作ったのはエクレア、もこもこした形に焼き上がったシューにカスタードクリームを詰め、チョコレートが全体にコーティングしてある。見た目はとっても可愛い。


「さあ、召し上がれ。その前に氷水をよろしく」

 あたしは右手を三十秒、氷水に浸してから、親指と人差し指、中指でエクレアをつまんで持ち上げた。チョコレートは硬いままで溶けたりはしなかった。端を口に入れて歯を当てるとチョコレートはぱりっと割れた。チョコレートの香り高い甘さ、カスタードの芳醇な甘さが口の中に広がる。おいしい。お姉ちゃんが去年作ったエクレアは甘さ控えめでほろ苦さがまさっていたけど、今年のはチョコレートも甘甘あまあまだ。こっちの方があたしの好みに合っている。

 一個、まるごとおいしくいただきました。


 食べ終わってふと見ると、親指と人差し指、中指の先にチョコレートが付いていた。溶けてつやつやと光っている。

「お姉ちゃん」

 あたしが手を広げると、お姉ちゃんも気が付いた。あたしの手を、もちろん指先は外して、握って温度を確かめる。

「右手の体温は上がっていないわ。一個食べ終わる頃には溶けてしまうみたい……。どうすれば」


 考え込んだお姉ちゃんが手を放したので、あたしの右手は自由になり、あたしは指先のチョコレートをぺろりと舐めた。うーん、甘くておいしい。


「美紅、まだ付いているわよ」

 顔を上げたお姉ちゃんがあたしを見つめた。えっ、どこに?

「ほら、ここよ」

 お姉ちゃんが手を伸ばしてあたしの唇をぬぐった。その指先につやつや光るチョコレートがあった。そうか、唇についていたのね。お姉ちゃんも指先のチョコレートを嘗めた。

「おいしい。そう、こういうのもいいかもしれないわ。私も味わうことができるし……。指でじゃなくて……」

 お姉ちゃんは頬を染めて黙り込んでしまった。なにか妄想の世界に入ってしまったみたい。


 二月十四日、お姉ちゃんはエクレアを作り上げて出かけて行った。

 帰って来たのはあたしが晩ごはんを食べ終えた後だった。

「お帰りなさい、で、どうだった?」

 あたしが訊ねたら、お姉ちゃんは顔を真っ赤にしてうつむいた。どうやら「お幸せに」と言うしかない状況の中にいるみたいだ。


                終わり

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