悪い夏 微糖
@Talkstand_bungeibu
悪い夏
夏だというのにいやに涼しい日の事だった。
今、私はロシアンルーレットの引き金を引こうとしている。
といっても、実際に私がリボルバー製の銃口を握りしめているわけじゃない。
私が握っているのは、あなたが握っているそれと同じものだ。
「まだ書いてないの?」
四日ぶりに帰ってきた妻が、机の端に置いてある黄色いクリアファイルを見て言った。もっとも、妻と呼べるのもしばらくの間だが。
あぁとか何とか、口の中でもごもごと言って誤魔化した。
「あなたはまだ、私が戻ってくると思ってるみたいだけど、見当違いもいいところだからね」
そんな事は思ってはいなかった。私は昨日の深酒のせいで眼球が痛いと思っていた。少し頑張れば弾けそうなほどに。
沈黙が続いた。妻はスマホを持ち、廊下へと立った。
クーラーが少し冷えすぎなほど部屋を冷やしていた。
妻から別れを告げられてから半年の間で、奥深くに眠っていた賭博癖が顔を出した。
競馬、パチンコ、オンラインカジノ。生活の為に溜め込んでいた金を吐き出すかのように使い、勝ったところで転がるようにまた使い、負ければ腹立ち紛れに酒を飲んだ。
ひとえに何か別の世界を覗かなければ耐えられなかったのだろう。
「スグルさんと今日会うそうじゃない」
5年前は同僚さん、3年前はナカガワさんと呼んでいた人の名前をあげた。
「別にいいだろう。昔は一緒に遊んでた仲だ」
「格好悪い真似しないでよ。変な事考えていたら私が許さないから」
妻に悟られないよう、遮光カーテンの側を向き、出て行くのを待ってようやく顔を向けた。いくら格好悪かろうが、賭けるタイミングはここしかない。
突然の質問で恐縮だが、あなたはプロバビリティの犯罪という言葉をご存知だろうか?
知らなくても江戸川乱歩という作家は知っている筈だ。
彼の短編小説の中に「赤い部屋」という作品がある。ある一室に集まった7人。その中の一人が、自分の退屈な人生を解消するために、殺人を行ったと語り出す。
もっとも、罪にならない殺人。可能性の殺人だ。
著名な医師と藪医者。道で苦しんでいる人物に藪医者の方の道筋を教える。後にその人物の死を知る事となる。
自分自身は一切手を下さない。意図して嘘を言った訳ではないので、罪には問われない。
これが、プロバビリティの犯罪である。
自ら犯行に及ぶことはないが、何らかの偶然によって死に至る可能性を上げる。
私が行おうとした事こそ、この殺人方法だ。
ナカガワ スグルは会社の同僚だ。
会社の人と話す時はどれほど親しくても敬語で話すが、スグルだけは別だ。
やたらと馴れ馴れしく甘えるような雰囲気で話しかけると、しょうがないなという気分になる。
営業でもそのテクニックはいかんなく発揮された。
事前に資料をたっぷり読み込んで話し合っても上手くいかない相手を、舌先三寸でねじ伏せるのがスグルであった。
「お前は真面目すぎるんだよ、もっと楽に構えてりゃ向こうも乗ってくるよ」
そんなことを言われるたびに苦笑いを浮かべるのがいつもの事だった。
ある日曜日の事。
長距離のドライブを私は妻と楽しんだ。
帰りは私にも運転させてといった妻の要望を聞き入れ、私は固まった腰を助手席で休ませた。
行き慣れた道だがどことなく落ち着く。自分の側を流れる川と、ずっと続いている田園風景を眺めていた。
チャットアプリの音が突然鳴った。
「お母さんかもしれない。代わりに出てくれない?」
「ああ」
妻のスマホを見ると、知らない女性の名前からのチャットが届いていた。妻の女友達の名前は大抵知っている。私は思わずスクロールしてしまった。
「今度はいつ会える?」「昨日の夜は楽しかった、また会いたい」「旦那には買い物とでも言えばいい」
名前こそ違っていたが、アイコンの画像で見分けがついた。
妻は悪びれもしなかった。スグルとてそれは同じ事だった。魅力を無くしてしまった僕に責任があるとまで言った。
自暴自棄になっていた私はスグルのされるがままになっていた。
そうして月日が流れていった。
悲しみは時間のみが癒すと誰かが言ったが、いくら時間が流れても私の屈辱、怒り、悲しみのかさぶたは塞がることがなかった。
ただ一瞬、賭博と酒という局部麻酔のみが脳内にあるアドレナリンを刺激し、絶望感を失わせた。
その日も私は数千円分のレースに負けた。そして見慣れた天井を眺めて考えた。
スグルが憎くてたまらない。だが殺すにも自分には技術や能力がない。
討ち死に覚悟で通り魔的に犯行を犯すか?いや、あんな奴のためにこれ以上人生を犠牲にしたくはない。
ならどうする?
賭博だ。
全てを運に任せる。上手く行けばスグルの命は絶たれる。仮に外れても捕まる恐れはない。
私には殺人の技術やトリックを考える才能はないが、スグルの行動パターンは詳しく知っている。
スグルのマナーや人間性は低い。これまでに何度も飲酒運転や、ながらスマホをしての運転を見た事がある。というよりほぼ必ずと言っていいだろう。
そして、近所に極端に事故が多い道路を見つけた。街灯が少なく速度が上げやすい一本道だが、急にカーブする箇所がある。
その少し前のタイミングでチャットを送れば、間違いなくスマホを開くはずだ。
そしてその日が雨で滑りやすくなっていたとしたら。
分かりきったことだ。
「こうして二人で飲むのなんて、何ヶ月ぶりだろうな」
「確かに。しばらく前までは朝まで付き合わされた事も何度もあったもんな」
スグルは相変わらず何の罪悪感もないような笑顔でやってきた。
夏だというのにやけにひんやりとした日があるが、その日がそうだった。
「しかし、よくこんな店見つけたな。行きつけの居酒屋かなんかかと思ったが」
「会わなくなってから行く店も変わってな。ここはバーだが料理もうまいんだ」
店は例のカーブを通るように決まった場所でなく少し街から離れた場所にした。コンビニなど近くに寄れるようなところはない。
「しかし、昔のように最近は飲んでるそうじゃないか。よくないぞ」
誰のせいだと思っているのか。
「しかし、奪った女の元亭主と飲むなんて滅多にない事だなぁ」
スグルは悪い冗談を言った時の癖で無理に笑って見せた。
「まだ現亭主だ」
「だった。それからギャンブルもやり始めたんだろ?どうだ、今年は」
これから殺す相手と飲む事こそ滅多にない事だが、殺す事になるかもしれない相手と飲むのは限りなくゼロに近いだろう。
私は奇妙な思いでレモンサワーを飲み込んだ。
「ーいや、思えば大変だったな、あの時の外回りも」
グラスを3杯ほど重ねた頃だったろうか。
「ずっと歩きっぱなしで、毎日筋肉痛だったよな」
「そうそう」
スグルの顔に変化があった。
いつもの人懐っこい顔に、涙が浮かんでいた。
私が何かを言いかけた時、いつものように続け様に言った。
「悪かったな、一回の間違いなんだ」
こいつは、何を言っているんだ。
「ずっと心の中でつっかえてたんだ。親友の奥さんを奪うなんてな。」
「親友?」
「図々しいか?会社に入ってからずっと隣でいたんだ、そう名乗る資格ぐらいあるだろ」
何を今更。
「許してほしいなんて思ってない。今はこうして飲めただけで満足だ」
「・・・」
「もう一軒行こう。なに、明日早々に外に出てどっかで涼んでたら体調も整うさ」
「トイレに行ってくる」
「ゲロか?最近飲んでる割には弱いな」
鏡の前でスマホを取り出し、眺める。
いつもこうだ。
こっちのペースで進ませない。
こんなギリギリになってそんなことを言いやがって。
わかった。いいだろう。
もう一軒としつこく誘うスグルを断り、公園のシーソーに座る。
最後の勝負だ。
お前が本当に改心したのなら、私のチャットに出ない筈だ。
ロシアンルーレットの準備はできた。
メッセージの入力を終えた。
【今日はお疲れ。久々に飲めてよかったよ。また時間があったら行こう。】
シンプルにして一歳の違和感がない。これをあいつの進む速度でカーブの位置にあたる、その時間15分。
リボルバーは装填され、放たれた。
「おにーさん、大丈夫?」
ついうっかりといった様子で、スマホをタップしてしまった。
声をかけてきたのは警官だった。
「君の方が若そうだ。おにーさんはないだろう」
「そんなにつっかからないでよ。心配してるんだから」
「心配?」
「随分顔赤いから。結構飲まれた?」
スグルに付き合っている間にかなり酒は回ったらしい。
「余計なお世話だ」
「そうもいかないよ。急性アルコール中毒で倒れたりしたら大変じゃない」
落ち着け。私は何もしていない。スグルにチャットを送っただけだ。
「大丈夫だ。しばらく休んだら行くから」
「よかった。じゃあついでに持ち物検査だけいいかな?」
血液の流れが速くなるのを感じる。
「嫌だ。任意だろ?」
「なんで?変なもの持ってなかったらいいじゃない」
私は反射的にスマホを後ろ手に隠してしまった。
「なになに、ただの携帯でしょ?隠す必要ないじゃん」
「改めて断る。私はあんたみたいなのが嫌なんだ。虫唾が走る」
「あのさ、こっちもプロなんだよ。なんかしてるやつとしてないやつの区別ぐらいつくの。もう全部話そう?」
ハッタリだ。そう分かっているが、指先が震える。
「わかった。だが早くしてくれ」
警官はなおも汚れた目で見ながら最初からそうしてくれたらもう済んでるよ、などと言った。
警官は鞄の中を隅々まで見た。
「じゃあ、最後にスマホも見せてくれる?」
私はスマホを差し出した。
「中身って見てもいいかな?」
「個人情報じゃないのか?」
「嫌なら長引くよ?」
私はパスワードを教えた。
大丈夫だ。確信があった。
確かにスマホについてこの警官は怪しんではいる。しかしチャットを見られた所でなんだというのだろう。
スグルが飲酒運転をしていようが何しようが、私は知らなかったのだ。彼にチャットを送った事が何の罪になるだろう。
警官はスマホを見つめ、しばらく眺めていたが何やら無線が入ったらしくそれに応対した後で私にスマホを返した。
「もういいのか?」
「それどころじゃない事故が起こったらしくてね」
私の全身の肌を猫が舌で舐めたような鳥肌が襲った。
そして私は好奇心に負けて訪ねてしまった。
「その事故は、交通事故ですか?」
警官は、私の顔を眺め言った。
「いや、確かに彼は飲酒運転をしていたそうだったが、実際の死因は小型飛行機が墜落したんだそうだ」
「小型飛行機?」
「ああ、それにしてもこんな事故、何万分の一の確率で起こるか起こらないかだ…。
おや、どうした?変な顔を浮かべて」
その時の私がどんな顔をしていたか、見る事はできなかった。
夏だというのにいやに涼しい日の事だった。
悪い夏 微糖 @Talkstand_bungeibu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます