凶馬は運命を妨げるか

十余一

凶馬は運命を妨げるか

 それは白馬に乗ってやってきた。白馬といっても童話に登場するような麗しい馬ではない。かの劉玄徳りゅうげんとく荊州けいしゅうで難を逃れたおりに跨っていた的盧てきろのごとき馬だ。ひたいの白斑が流星のように伸び、唇まで達している。古代中国ではわざわいを呼ぶ凶相きょうそうだ。

 水色の勝負服に白い帽子を被った騎手は、その馬に揺られながら馬場に入場した。馬の胴には一番のゼッケンが掲げられている。


 空はどんよりと曇り、今にも雨を降らせそうな雲が低く垂れこめていた。ある種の狂気すらはらむ会場の盛り上がりとは裏腹に、俺の胸中は空と同じ色をしている。

 いつか、敬愛する作家が愛好していた煙草を吸い、物語の舞台となった競馬場に行きたい。しかし余命宣告でもされない限りは出来ないだろうなと、昔、冗談めかして言った言葉を実行に移しているのだ。


 俺にとって煙草と賭博とばくは、人生において最も遠ざけておくべきものだった。

 俺の実父は、家族危急の時に煙草を吹かしながら玉入れをするような男だった。生ごみの腐ったような男だ。反面教師になる以外に価値のないクズだ。そんなろくでもない奴に、俺を含めた家族がどれだけ迷惑を被ってきたかは言うに及ばないだろう。

 それでもやっぱり、死ぬのなら、憧れの文筆家に迫る死に方が良いと思ってしまった。最期に、あの人がつづった物語の一部になりたかった。


 そうして先程、喫煙所で吸えもしない煙草にむせてきたところだ。咳をする度にきしむような痛みが襲う。どうしようもなく死にそうで、生きている。指の間に挟まれただけの煙草から立ち昇る煙は、誰の肺臓にも染みこむことなく溶けて消えていった。人の命はこのくゆる紫煙よりも儚いと悲観しそうだ。

 白地に赤丸のパッケージはそのまま鞄に仕舞われた。残りは棺桶にでも入れてもらおう。


 馬券は単勝の一。亡き細君さいくんの名が一代かずよであったから、一番を買う。馬の血統や騎手の上手下手じょうずへたなど知らない。ただ、愛念と嫉妬の交じり合った一番を買うだけだ。

 主人公の名前も、史学科を出て教師になったという経歴も、野暮天で糞真面目という性格も、自分と重なるものだった。作者自身が自分と同じく金木犀の頃の生まれであるということも、親近感を抱かせた。


 こうして静かな自棄じき、緩やかな自害じがいは決行される。勝負の行方に頓着とんちゃくは無い。

 しかし、もしも大金を手にしてしまったら、命を終わらせたくないといういやしい気持ちが湧きいでてしまうのだろうか。凶馬よ、お前は騎手をたたるのか。それとも、俺の運命をさまたげるか。



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