一過

@omatsusan

一過

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 試合の会場までとりあえず足を進めてはいるが、試合が実際に始まるのはまだ先のことである。

 練習の量で言えば、私のそれは決勝戦に達するまでには心許ない。だがしかし、自負を明かすとしたら、質である。短い時間にあえて何もかもを叩き込んだ。そもそも、実際の試合では剣を交えて三分で決着をつけねばならず、一時間ならまだしも、酷暑または極寒の最中に数時間以上も体を痛めつける必要はないはずである。一撃必殺が求められる世界の中で、悠久と余裕の時間を持ってはなるまい。練習の場から、刻一刻と迫り来る感覚を身に付けて戦うべきであろう。

 女子の部は男子の部の後であるから、女子は体を解す時間がザラにある。なればこそ、体を動かすべきであるが、必要以上はしない。素振りと摺り足の反復だけでよかろう。ここで満腔のアップを施してみれば、これまでの練習の意義を再度問わねばならない。私が行ってきた練習は「いざ」という時の剣道である。しかれば、私に今必要なことは精神的な静寂を芯に通すことである。

 数ある対戦者の中から、優勝筆頭を引き当てる運を幸運か不運かと分けるのであれば、幸運と称する他あるまい。不運と称して、相手が優勝筆頭から陥落するわけでもなく、幸運と称すればこそ、精神的な静寂に至れるはずだ。相手が強い以上、対戦時間も短くなるであろう。一撃必殺を施す良い機会ではないか。

 かといって。私が無邪気に強敵にほころんでいると勘違いされては困る。強敵が幸運たる相手ならば、弱敵は天の恵みである。武道の嗜みに準じて、いかなる相手に油断するべからず、しかし人間としての欲を抑える境地は武道ではなく戒律に近いものであるから、欲は理性で圧するべきではない。勝てるに越したことはない。

 武道館の一席に座り、男子の試合を見ていた。

 胴と垂れはつけていない。道着と袴、そして竹刀だけを持っている。

 目を瞑り、腕を組んだ。胸の内に思う嵐があるのなら、沈めて地平線を見る。

 強敵は台風であった。いかに沈めようとも、さながら徒手空拳で、呆然と見ているしかない。目を瞑る挙動は、目を抑える動作に変わる。勝てぬ相手に挑む無謀を、野蛮と見る私が台風を助長している。台風に勝つには、如何にするべきか。

 途端、汗が滲む額を滑る感触があった。

 見れば、小さな幼児が私の竹刀を勝手に持ち上げ、私の面を打ったのであった。まさしく面を喰らった気になったのだが、その男か女かわからぬ幼児は一撃に瞠目した私の表情を餌にして莞爾と笑っていた。背丈も形相も己以上の女に容赦なく一撃を加える魂胆は、称賛する値になる。

 果て、目指すべき境地ではないか。

 莞爾と笑う幼児に私は畏敬を覚えた。幼児の出現は、私に一種の和みを与えるどころか、至らぬ境地の垣間を覗かせた。幼児は私の胸裡に突き刺さる光芒であった。

 侮れぬ相手である。幼児は見知らぬ相手に笑みを浮かべる。では、私とて無名を貪る剣士。粗末な一撃ごとに笑っていればいいではないか。強敵を倒す術を考える前に、強敵を恐れさせる術を考えよ。強敵を私は知っているが、強敵は私を知らない。想像に難くない。見ず知らずの人間が笑みの戦術を取るなんぞ、末恐ろしいではないか。

 幼児は親に抱かれて、消えていった。私は幼児が手に包んでいた柄を急いで手の内に入れた。依然、幼児の体温が伝わった温もりが柄の表面を覆っていた。

さながら、太陽の温もりのようであった。

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