5-2

「定跡は捨てましょう」

 乃子は言った。美利は黙ってうなずく。

 ついに女流アマ天翔戦の地区予選まであと3日となっていた。乃子の美利に対する指導も、今日が最後である。

「あー、うー」

 美利はうなっていた。頭ではわかっていても、割り切るのがつらいのだ。

 定跡は日に日に進歩しており、十数年のブランクがある美利にはなかなか覚えられなかった。乃子だってすべてを理解できているわけではない。しかし今や、アマチュアでも定跡はある程度知っていて当たり前なのである。

「知っている形になるのを期待するわけにはいきません。最初から美利さんの得意な形に誘導するべきです。形勢は不利だとしても」

「不利ってわかってて目指すのはつらいなあ」

「終盤力はかなり戻ってきています。泥仕合こそ勝機があります」

「泥試合で鍵山さんに勝てる?」

「……角換わり腰掛銀するよりは。当たらないことを祈るのが一番です」

 地区大会の代表枠は二つ。予選は2勝勝ち抜けで、決勝トーナメント進出者はくじを引くことになる。鍵山アズサと別の山になれば、彼女に勝てなくても代表になれるのである。

「あー、緊張するなー」

「そうですね」

「乃子ちゃんも緊張するの?」

「それはもちろん。将棋って、負けるの簡単ですから……」

 将棋は、どんなに有利な局面でも反則や時間切れですぐに負けてしまう。乃子は、常にそのことにおびえていた。

「そっか。じゃあ私も緊張しよ」

 美利は、両手で自分の頬を引っ張った。気合を入れるときのしぐさだった。



「二分の一……よりは大きいか」

 アズサも。大会を目前にして勝ち抜くにはどうしたらいいかを考えていた。立川乃子が出るとすれば、勝たないと代表になれないかもしれない。予選リーグでも当たる可能性がある。しかし、お互いに他の選手に敗北するとは考えられず、2敗負け抜けというのはないと予想していた。そうなるとやはり、決勝トーナメントで同じ山になるかが問題となる。

 これまでアズサには、1回しか勝ったことがなかった。おととしの冬、全国大会の団体戦。五将戦で当たり勝利し、チームも勝った。絶対王者の紀玄館大学が敗北したということでかなり話題になったし、「ライバル対決」として注目されることにもなった。しかしその後二人は、対戦していない。

 どの世代でも、個人戦では当たってきた。一般のアマ大会ですら、対戦するのが普通だった。それが、二年間も対戦がない。

 かなりの確率で、二年ぶりに対戦する。そう考えるとアズサは、口から何かを吐き出しそうだった。

 蓮真に電話しようとして、やめた。彼とは無関係に、勝負をしなければならない。そんな気がしたのである。


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