4-2

「あ、立川さーん」

 朝、早めに職場に着くと名前を呼ばれた。昔の知り合いに見つかったのではないかとびっくりしたが、ケーキ屋の前で手を振っているのは店主の鳴坂だった。

「あ、はい」

「ちょっと試作品食べてもらえませんか」

 乃子はしばしばケーキを買うようになり、最近は鳴坂と会話を交わすようになっていた。

「もちろん!」

 店に入ると、テーブルの上に大きな桃のタルトが置かれていた。

「僕はこういうのは苦手なんだけど、阿波野さんが作った方がいいって。自信ないんだけど」

「おいしそうですよ」

 鳴坂はタルトを切っていく。その腕が意外に太くて、乃子は驚いた。

「おいしいとは思うけど、また買いたいと思うかなんだよなあ」

 乃子は差し出されたケーキを、ゆっくりと口に運んだ。

「あっ……おいしいです。濃厚で……でも」

「でも?」

「一度食べたら、しばらくはいいかなって。ごめんなさい……」

「あ、いいよいいよ。うん、そんな気がしたんだよなあ」

 鳴坂はそう言いながら、自分もケーキを口に入れる。

「鳴坂さんは……食べるの飽きないですよね?」

「はは。仕事はね、楽しいことばっかじゃないからね。修行中から飽きてるし、ちょっとでも味が違うと新鮮だよ」

 キラキラとした笑顔を向けられ、乃子は恥ずかしくなった。ケーキを作る人は皆、ケーキ作りのすべてが大好きだと思っていたのだ。

「失礼なことを聞いてしまって……」

「いや全然。じゃあ僕からも聞こうかな。立川さんもレストラン、飽きてるんじゃない?」

「あ、最初から好きじゃないです」

「はははは」

 鳴坂は腹を抱えて笑った。



「桃のタルトだーっ」

 将彰は右手を突き上げた。

「ちょっと将彰、はしゃぎすぎ」

「俺、乃子姉ちゃんちの子になりたい」

「もう」

 乃子は微笑みながら、胸が痛んでいた。立川家も、親がケーキを買ってくるような家ではない。

「あの、美利さん」

「はい」

「宿題、できました?」

「まあ、うん」

 乃子が美利に課したのは、棋譜並べだった。スマホで中継されている棋譜を、盤上に自らの手で並べるのである。

「あ、ちょっとさぼりましたね」

「まあねえ。忙しくて」

「しょうがないですね。でも、続けてください」

 乃子も高校生の時に、棋譜並べを繰り返していたことがある。将棋教室に来ていたアマ強豪に勧められたのだ。「普段ネットで指していると、大会の時に体がなじんでないんだよ。体に盤駒を覚えさせるんだ」

 そんなことがあるものか、と乃子は思っていたが、実際調子が戻ってきた。

 この日も美利は、乃子には勝てなかった。しかし前回よりは、いい勝負になった。

「鍵山さんに勝てるとしたら……気が付かないうちに有利になることです」

「そっか」

 地区大会最大の壁は、県立大四年生の鍵山アズサになるはずだった。乃子はずっと負けなかったが、アズサはずっとくらいついてきた。そして今ではきっと彼女の方が強いだろう、と乃子は感じていた。

「大学でもまれると粘り強くなりますから……。長手数指す体力も身に付きます。育成会の時、美利さんあんまり苦戦しなかったんじゃないですか?」

「そうね」

「だから、そういう展開を目指しましょう。体力勝負は不利です」

「はい、先生」

「せ、せんせい……」

 乃子は、人生で初めて先生と呼ばれた。恥ずかしくなって、両手で口を覆い隠した。

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