3-5

「はあ」

 アズサは、小さく短い溜息をついた。

 大学生として、最後の夏が近づいている。九月には、アマ女流天将戦の地区予選がある。

 最近就活で忙しく、なかなか対局ができていない。また、モチベーションも以前よりは落ちていた。

 昨年、チャンピオンの前初那大そなたはおらず、乃子もトーナメントの途中で敗れた。優勝するにはまたとないチャンスだったが、それでもアズサはトップに立つことができなかった。乃子が負けた時点で、目標を見失ってしまったのである。

 さらには、秋の大会でチームとしても優勝を逃した。部長としても責任を全うできなかった、と感じている。

 ずっと、乃子を追いかけてきた。何度も何度も負けたのだ。だからこそ乃子には、トップであり続けてほしかった。

 そんな乃子に勝った天才小学生は、奨励会で苦戦している。

「私も、いなくなるのかな」

 ライバルと思っていた子が、将棋をやめる。そんなことは何回もあった。大会やイベントで女の子は一人だけ、なんていうことは、何度も経験した。それでも地区大会に行けば、必ず立川乃子がいた。隣県のライバルは、心のよりどころでもあったのだ。

 乃子に勝って天将になる。それだけは、達成しなければならない。

 アズサはり、本棚から詰将棋の本を取り出した。



 乃子は少し早めに職場に来て、果樹園を眺めていた。夏になると、ブドウ狩りと梨狩りができるらしい。

 美利と将彰は、果物狩りをしたことがあるだろうか、と乃子は考えた。彼女は経験がなかったが、何回か誘われたことはあった。めんどうくさいと思って断ったのである。

 誘ってみようか。美利が忙しいならば、自分が将彰の面倒を見てもいいかもしれない。

 いろいろと考えた末に、おせっかいじゃないか、なんで自分がそこまで、といろいろと悩み始めてしまった。

 将彰は、母親に何を期待しているのだろうか。将棋をしている間は、自分の方を向いてくれない。どこにも連れて行ってもらえないし、サッカーに付き合ってもくれない。それでも将棋をしてほしいのだろうか。

 女流育成会をやめたのは、将彰が生まれることになったからだと言っていた。そのことを、気にしているのだろうか。

 女流棋士になったとしたら、美利がどこまで活躍できたのかはわからない。あったかもしれない未来のことを気に病んでいるとしたら、とても不幸なことに思えた。

「ん?」

 突然、ある表情を思い出した。とても喜ばしいことのはずなのに、淡々と未来を語り、それどころか悲しそうですらある表情。将彰の顔と似ているのは、それだったのか?

 そんな馬鹿な、と思った。しかし記憶の中ですり合わせていくと、やはり似ているのである。

 突然つながった二つの点に、乃子は戸惑うばかりだった。しかし、仕事の時間が迫っている。とりあえず立ち上がり、「仕事をする人」になってレストランの中へと入っていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る