2-5

「お姉ちゃんキーパーね!」

 庭尾将彰はそう言うと、白い歯を見せてボールをセットした。やわらかいゴムのボールだが、将彰の蹴ったボールは風を切りながら、乃子の横をあっという間に通過していった。全く身動きが取れなかった美利は、しばらくきょろきょろと目だけを動かしていた。

「えっ、あれ?」

「ちょっとー、せめて取ろうとしてよー」

 子供って、こんなちゃんと蹴れるんだ。美利は面食らっていた。

 自分はと言えば、スポーツが楽しかったという記憶がない。いや、一度だけ水泳で歩くだけの授業があって楽しかった。

 美利の家までやってきたものの、まだ帰宅していないとのことだった。彼女もまた実家に住んでいたが、乃子とはかなり事情が違った。将彰が生まれるということになり、美利は一度駆け落ち同然で家を出て行ったのである。しかし相手の男が姿を消し、途方に暮れた彼女は結局実家に戻ってきた。

 乃子は、自分のことが恥ずかしくなっていた。実家に戻ってきてダラダラと日々を過ごしていたし、今だって週に三日しか働いていない。

「あ、母さんだ」

 自動車の音がする。赤い車が、駐車場に停められた。

「ごめーん、遅くなっちゃった」

「いえ、そんな」

「ちょっと将彰、乃子ちゃんに何させてたの?」

「キーパー!」

「もう、ごめんね」

 美利に手招きされて、乃子は家の中へと入った。

 昔ながらの、木造建築だった。玄関は大きく、四畳ぐらいあった。外から見ただけでも、多くの部屋があるのがわかる。

「すごい……」

「あれ、初めてだったっけ?」

「はい」

「そっか。道場でしか会ったことなかったっけ。ふふ、こんな家です」

 乃子の家も、下の地区の子供たちからはよく「広い」と言われた。しかし庭尾家は「本当に広い」家だった。

「多分両親は居間でしょ。こっち来て」

 森が案内されたのは、八畳の部屋だった。掛け軸が駆けられており、大きな壺もあった。

「さ、これ食べよ。じゃーん」

 そう言って美利が取り出したのは、ファーストフード店のフロートだった。緑色の液体からは泡が出ており、白い生クリームが山盛り乗っている。

「久しぶりです」

「でしょ? ここにいると食べらんないからさー」

 昔ながらの家屋の大きな部屋に、金髪の女性とフロート。異様な光景だ、と乃子は困惑していた。だが、きっと美利にとっては普通なのだろう。彼女はこの田舎の家で、明るく元気な女の子として育ったのだ。

「あの、私……」

「あ、いいって。将棋指せないって話でしょ。私が都合よすぎたんだよね、教えてくれって」

「でも、美利さんにはお世話になったので、申し訳なくて」

「貸しを作ってたわけじゃないし。私も女の子がいて楽しかったんだよ」

「良かったです」

「でもさ。全く指さないつもりなの? あんなに強いのに?」

「その……わかりません。大学で、楽しくなくなっちゃったので」

「将棋が? それとも人間関係が?」

「……」

「佐谷君と何かあった?」

「えっ……じゃなくて……」

「松原君!? 意外だー。断然佐谷君がおすすめだけど」

「え、そうなんですか?」

「いやまあ、私は男見る目がないけどね、あっはっは」

 乃子はどう反応していいのかわからず、フロートをすすった。美利の表情が、次第に真面目になる。

「あの……」

「で、松原とは別れて戻ってきたん?」

「はい」

「楽しい将棋の思い出が、懐かしいと」

「私蓮真を……裏切ったんです」

 乃子は目をつぶって、少し声を震わせていた。

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