2-2

 かつて、道場に行った時。男の子ばかりに囲まれて怖くなっていたところに、制服姿の美利は現れた。

「おお、後継者発見」

 そう言うと美利は、乃子を膝の上に載せた。

「わっ」

「私がプロになれなかったら、君がなるんだぞ」

「プロ?」

「女流棋士目指してるの。庭尾美利、よろしくね」

 美利は高校生で、女流育成会に入ったところだった。長い黒髪と、人懐っこい笑顔が皆の印象に残る女性であった。

 乃子は、美利にたくさん将棋を教わった。将棋界のことも教わった。

「私も女流棋士になれる?」

「なれるよ。乃子ちゃん、すじがいいもの」

 美利は大学には行かないと言っていた。高校を卒業したら、東京に行くつもりだと。

「じゃあ、いなくなっちゃうんだ」

「ごめんね。でも最近、仲のいい男の子がいるね」

「うん」

 人見知りの乃子は、誰とも仲良くなれたわけではない。最初に話せるようになったのは、同じ年齢の佐谷蓮真だった。最初はただ、会話ができるという関係だった。乃子は、それだけでも安心できたのである。彼女は、将棋をするのが楽しくなっていた。

 だが、美利は突然姿を見せなくなった。女流育成会もやめたてしまったらしい。電話もつながらず、町の者は誰も彼女を見ることはなくなったのである。

 乃子の喪失感は計り知れなかった。「私も」どころか、最もプロに近い人が女流棋士にならなかったのである。

 


「あー、疲れた」

 スーツ姿の蓮真は公園のベンチに座っていた。あたりはすっかり暗くなっている。

 新興住宅地に作られた、真四角な公園。彼にとっては、思い出の場所でもあった。

 乃子は、公園を見ると表情を明るくしたものだった。だが、最後の思い出は楽しいものではなかった。大学三年生の最後、蓮真と乃子はここで話をした。それは謝罪であり、宣言でもあった。

 蓮真はもう、乃子と冠の二人を恨んではいなかった。ただ、悲しかったのだ。

 乃子は団体戦に出ないと言った。四年生になれば、そういう選択肢もある。けれども推薦で入った彼女は、部活をやめるわけにはいかなかった。個人戦は出続けてた。学生大会では優勝したが、女流アマ天将戦ではベスト8で負けた。その場にいたアズサの話によれば、全くらしさが見られなかったそうだ。

 県立大に来ていれば。もっと楽しく、最後まで指せたかもしれない。

「まったくやる気出ん」

 仕事も楽しくないし、将棋もやる気が起きない。「県立大を全国三位に導いた男」は、ただぼんやりと星々を見ていた。

「ん?」

 スマホにメッセージが届く音がした。見ると、アズサからだった。


<就活疲れたからどっか連れて行け、社会人。23日までに>


「まったく」

 アズサは、大学四年生である。彼女もまた、将棋部にどっぷり漬かった人間だった。昨年は部長も勤めた。将来のことはあまり考えたことがなく、就職が苦痛でしょうがないらしい。

 ただ、アズサはきっと将棋を続ける、と蓮真は信じていた。彼女が目指していたのは部活でトップになることではない。立川乃子に勝つことなのだ。

 乃子が今どこで何をしているのかはわからない。けれども、将棋は続けているだろう、と蓮真は思った。だったら、アズサも続けるはずだ。


<金曜休みよ。授業は?>

<2限だけ。うまいもん食わせろ>


 蓮真は微笑んだ。将棋はできなくても、将棋で出会った人とのつながりはある。将棋をやってて、良かったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る