美利は頼んだ

2-1

 13年前。美利は将棋界を去った。正確には、プロの世界に行くのをあきらめ、そのまま将棋を指さなくなった。

 指す余裕がなかったのだ。

 妊娠が分かったときは、喜びの方が大きかった。好きな人との間に、新しい命ができるのだ。「いつかは一緒に東京で暮らそう」と誓った相手だった。「いつか」が早くなるのだと思った。

 「いつか」は訪れなかった。

 子供のために必死になって、気が付いたら13年。その間に将棋を教えてあげた子が大学生になり、女流アマのトップになっていた。

「キラキラしたいよね」

 鏡の中の自分に、美利は語りかけた。

 女流棋士になって、タイトル戦に出て、和服を着てみたかった。

 タイトルを獲得して、祝賀パーティーをしてもらいたかった。

 イケメン俳優と対談がしてみたかった。

 そんなキラキラは、全部かなえられなかった。

 ある日悔しくなって、髪を染めた。自分を塗り替えようとしたのだ。

「あー、いーじゃん」

 息子の感想に、とても救われた。



 目の前が真っ暗になることは、確実にある。

 乃子はそれを、対局中に経験した。

 二年前の、上流アマ天将戦決勝。相手は小学生の川瀧初那大そなただった。対戦するまでは「強い子がいるんだな」ぐらいに思っていたが、対峙した瞬間に驚いた。気圧されたのである。

 鋭い眼光。高い駒音。そして、圧倒的な攻撃力。

 なすすべなく負けた後、乃子はどこかで、救われた気がした。

 解放される。

 気が付くとトップに立っていた。多くの人々が自分のことを知っている。紀玄館のレギュラーにもなった。しかし、そこでは負けることも多かった。「負けなし」と「負けあり」の二つの世界に属している自分が、何者なのかよくわからなくなっていた。

「天将、か」

 原付を置いて、ヘルメットを外す。空を見上げると、薄く曇っていた。

「ただいま」

 返事はなかった。両親は出かけているようだった。

 乃子は、縁側に腰かけた。昔、ここでよく将棋を指した。最初は祖父と、その後は友達と。

 このあたりの学区は広かった。父親の時代は山の中に学校があったらしいが、下に町ができて、そちらに吸収される形となり閉校となった。乃子は毎日、山を下りて学校に行った。

 そこは別世界だった。景色が違うだけではない、人も違った。どこか明るくて、時にすごく冷たかった。ああ、温度の揺れ方が違うんだ、と思った。

 もともと山だったところを切り開いた町だったが、乃子にとっては都会の飛び地に感じられた。スーパーも本屋も動物病院も、すべてがすごいものに見えていた。

 山を登って帰ってくると、とても寂しくなった。だから、誰かが訪れてくれること、一緒に遊んでくれることは本当にうれしかったのだ。

 将棋が、つないでくれた。乃子にとって将棋は、友情を保障してくれるツールだったのだ。

 恋愛になんてならなくてよかったのに。

 雨が降ってきた。乃子は縁側から退散した。

 

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