1-3

 乃子は働いていた。週に三回、「阿波野食堂」でバイトをしていた。。

 阿波野食堂は人気で、山中にありながらけっこう人が来る。乃子のほかにも従業員がいたものの、お昼時はとても忙しかった。

 幸いなのは、ほとんどの客が自分とは違う世代ということだった。高校の同級生とかには、すごく会いたくなかった。

 働き始めて二週間たつが、何とか仕事をこなせていた。午後三時には、食堂は閉まり乃子の仕事も終わる。

「あ、まだ空いてる」

 扉を出たところで、乃子の目にクリーム色ののぼりが目に入った。隣にちょこんと立っている、ケーキ屋のものである。

 農園では、果物も採れる。それらを利用して、ケーキを作っているのである。乃子が帰るときには、いつも売り切れで閉店していた。

 乃子は甘いものが好きである。母親も甘いものが好きである。いつかは買って帰りたい、と思っていたのだ。

 だが、店に近づいて乃子は驚いた。中には十人近くの人がいてごった返していたのである。

「え、え」

 狭い店なので、乃子は自由に動けなくなって、とりあえず陳列棚を見た。あんずのケーキだけがいくつも並べられていた。そして、「閉店セール、おひとり様二つまで」と書かれていた。

 乃子はよくわからないままに、流れに身を任せてあんずのケーキを二つ購入した。



「なんか、神戸に行くんだって」

 二日後にバイトに来た時には、ケーキ屋は本当に閉店していた。

「神戸ですか」

「誘われたって。元々腕のいい人だったから」

「次の人は来ないんですか?」

「募集中。でも、見つかるかどうか」

 あんずのケーキはとてもおいしかった。また食べたい、と乃子は思ったのである。

 ただ、出て行く人の気持ちも分かった。本来、多くの人々が去っていく場所なのだ。帰ってきた乃子の方が珍しいのである。

「乃子ちゃん、ケーキ焼いてみる?」

「え、そんな私、全然」

「うそうそ。そんな簡単なものじゃないしね。前のケーキ屋さんは、おいしくなかったからすぐやめちゃった」

「そんなことが」

「田舎でおしゃれなお店を持ちたい、って夢は、続けるのが大変な夢なのよねえ。うちだってレストランだけだったら無理だと思う」

「そうなんですね」

「バイトに来てくれるかわいい子も乃子ちゃんだけだしね。どう、週五にしない?」

「それは、はははは……」

 特にできない理由もないが、乃子は笑ってごまかした。しいて言えば、体も心もまだ働くことに慣れていないのである。

 そんなことを言っても同級生たちは働いているんだろうけど。冠は、強い将棋部のある会社に誘われて入った。一生将棋にかかわる人生を歩んでいくのだろう。

 乃子はまだ、将棋をやめてからの人生になじんでいない。許されるならばゆっくりと、普通の人になっていきたいのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る