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乃子は働いていた。週に三回、「阿波野食堂」でバイトをしていた。。
阿波野食堂は人気で、山中にありながらけっこう人が来る。乃子のほかにも従業員がいたものの、お昼時はとても忙しかった。
幸いなのは、ほとんどの客が自分とは違う世代ということだった。高校の同級生とかには、すごく会いたくなかった。
働き始めて二週間たつが、何とか仕事をこなせていた。午後三時には、食堂は閉まり乃子の仕事も終わる。
「あ、まだ空いてる」
扉を出たところで、乃子の目にクリーム色ののぼりが目に入った。隣にちょこんと立っている、ケーキ屋のものである。
農園では、果物も採れる。それらを利用して、ケーキを作っているのである。乃子が帰るときには、いつも売り切れで閉店していた。
乃子は甘いものが好きである。母親も甘いものが好きである。いつかは買って帰りたい、と思っていたのだ。
だが、店に近づいて乃子は驚いた。中には十人近くの人がいてごった返していたのである。
「え、え」
狭い店なので、乃子は自由に動けなくなって、とりあえず陳列棚を見た。あんずのケーキだけがいくつも並べられていた。そして、「閉店セール、おひとり様二つまで」と書かれていた。
乃子はよくわからないままに、流れに身を任せてあんずのケーキを二つ購入した。
「なんか、神戸に行くんだって」
二日後にバイトに来た時には、ケーキ屋は本当に閉店していた。
「神戸ですか」
「誘われたって。元々腕のいい人だったから」
「次の人は来ないんですか?」
「募集中。でも、見つかるかどうか」
あんずのケーキはとてもおいしかった。また食べたい、と乃子は思ったのである。
ただ、出て行く人の気持ちも分かった。本来、多くの人々が去っていく場所なのだ。帰ってきた乃子の方が珍しいのである。
「乃子ちゃん、ケーキ焼いてみる?」
「え、そんな私、全然」
「うそうそ。そんな簡単なものじゃないしね。前のケーキ屋さんは、おいしくなかったからすぐやめちゃった」
「そんなことが」
「田舎でおしゃれなお店を持ちたい、って夢は、続けるのが大変な夢なのよねえ。うちだってレストランだけだったら無理だと思う」
「そうなんですね」
「バイトに来てくれるかわいい子も乃子ちゃんだけだしね。どう、週五にしない?」
「それは、はははは……」
特にできない理由もないが、乃子は笑ってごまかした。しいて言えば、体も心もまだ働くことに慣れていないのである。
そんなことを言っても同級生たちは働いているんだろうけど。冠は、強い将棋部のある会社に誘われて入った。一生将棋にかかわる人生を歩んでいくのだろう。
乃子はまだ、将棋をやめてからの人生になじんでいない。許されるならばゆっくりと、普通の人になっていきたいのである。
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