1-2
「あんた、阿波野食堂で働かない?」
「え?」
昼食のとき、母親が唐突に言った。
「バイト募集してんだって。大学生が来てたけど、『やっぱり遠い』とかでやめちゃって」
「えーと、店内?」
「もちろん」
阿波野食堂は近所にある農園レストランである。園内で採れた野菜を使った料理が好評で、乃子も何度か行ったことがあった。
「うーん」
「あんた、別に家が大好きなわけじゃないでしょ。働いてみたら?」
「考えとく」
乃子はぶっきらぼうに答えたが、内心少し喜んでもいた。街に出てまで仕事を探す気もなかったが、ずっと家にいるのも飽きていたのである。
「せっかくだから行ってみなさいよー」
「うーん」
乃子は素直には答えたくなかった。
原付で約15分。距離は遠くないが、山道は時間がかかる。
都会で暮らすことを考えていた乃子は、自動車の免許を取らなかった。大学の周りには私鉄・バス・そして地下鉄も通っていた。行きたいところにはだいたいお金を払えば行けたのである。
しかし田舎はそうはいかない。阿波野食堂の前を通るバスは一日に4本である。しかも、休日は0本である。
広い駐車場の端に原付を止めて、乃子は建物へと入っていった。
「こんにちは」
「あらあ、立川さんちの」
見るからに陽気そうなおばさんがいた。
「乃子です」
「大きくなったわねえ」
田舎でよくある挨拶である。乃子の方は、相手のことを覚えていなかった。
「あ、え、えーと……」
「ふふ、2歳の時だから覚えてないよねえ。私は阿波野佐那。よろしくね」
「あ、はい! 立川乃子です!」
「あら、緊張してる。いいのよー、しばらくはまだお店開かないから、お話ししましょう」
乃子は、悲しそうな笑顔を作った。よく知らない年上の人と話しているから、緊張しているのである。
<よかった。おめでとう>
蓮真はメッセージを送ると、立ち上がった。降りる駅だったのである。
社会人一年目。世間は連休中だが、蓮真は仕事だった。カレンダー通りに休みがあるわけではない仕事に就いたのである。
県立大将棋部の後輩たちが、全国大会に行くことになったという連絡を受けて、蓮真はほっとしていた。春の大会ではなかなか優勝できずにいたのである。
昨年度は、秋も優勝できなかった。全国三位にまでなっても、次の年には地区大会も勝ち抜けない。団体戦というのは、厳しい。
しかし蓮真は、そんな世界から卒業した。そして、驚くほど将棋に対する情熱がなくなってしまった。4月にはアマの大会があったが、蓮真はすっかりそのことを忘れていた。気が付くと、終わっていたのである。
それでも普段から、スマホで指すぐらいはしていたし、プロの棋譜は追っていた。そして、後輩から大学将棋部の情報は入ってくる。
距離が開いたなあ、と蓮真は感じていた。社会人になって、大活躍する人もいる。個人としても、そこそこやれるという自負が彼にはあった。ただ、いかんせんやる気が出てこないのである。
帰宅して、靴を脱ぐ。玄関には、賞状が飾られていた。子供時代、将棋でもらったものである。
個人としては一回も優勝できなかったが、団体戦では何回か代表になった。蓮真にとっては良い思い出ばかりとは言えないが、両親は誇りと思って飾り続けている。
「何してんのかね、乃子は」
賞状に書かれた名前を見ながら、蓮真は言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます