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「あんた、阿波野食堂で働かない?」

「え?」

 昼食のとき、母親が唐突に言った。

「バイト募集してんだって。大学生が来てたけど、『やっぱり遠い』とかでやめちゃって」

「えーと、店内?」

「もちろん」

 阿波野食堂は近所にある農園レストランである。園内で採れた野菜を使った料理が好評で、乃子も何度か行ったことがあった。

「うーん」

「あんた、別に家が大好きなわけじゃないでしょ。働いてみたら?」

「考えとく」

 乃子はぶっきらぼうに答えたが、内心少し喜んでもいた。街に出てまで仕事を探す気もなかったが、ずっと家にいるのも飽きていたのである。

「せっかくだから行ってみなさいよー」

「うーん」

 乃子は素直には答えたくなかった。



 原付で約15分。距離は遠くないが、山道は時間がかかる。

 都会で暮らすことを考えていた乃子は、自動車の免許を取らなかった。大学の周りには私鉄・バス・そして地下鉄も通っていた。行きたいところにはだいたいお金を払えば行けたのである。

 しかし田舎はそうはいかない。阿波野食堂の前を通るバスは一日に4本である。しかも、休日は0本である。

 広い駐車場の端に原付を止めて、乃子は建物へと入っていった。

「こんにちは」

「あらあ、立川さんちの」

 見るからに陽気そうなおばさんがいた。

「乃子です」

「大きくなったわねえ」

 田舎でよくある挨拶である。乃子の方は、相手のことを覚えていなかった。

「あ、え、えーと……」

「ふふ、2歳の時だから覚えてないよねえ。私は阿波野佐那。よろしくね」

「あ、はい! 立川乃子です!」

「あら、緊張してる。いいのよー、しばらくはまだお店開かないから、お話ししましょう」

 乃子は、悲しそうな笑顔を作った。よく知らない年上の人と話しているから、緊張しているのである。

 


<よかった。おめでとう>

 蓮真はメッセージを送ると、立ち上がった。降りる駅だったのである。

 社会人一年目。世間は連休中だが、蓮真は仕事だった。カレンダー通りに休みがあるわけではない仕事に就いたのである。

 県立大将棋部の後輩たちが、全国大会に行くことになったという連絡を受けて、蓮真はほっとしていた。春の大会ではなかなか優勝できずにいたのである。

 昨年度は、秋も優勝できなかった。全国三位にまでなっても、次の年には地区大会も勝ち抜けない。団体戦というのは、厳しい。

 しかし蓮真は、そんな世界から卒業した。そして、驚くほど将棋に対する情熱がなくなってしまった。4月にはアマの大会があったが、蓮真はすっかりそのことを忘れていた。気が付くと、終わっていたのである。

 それでも普段から、スマホで指すぐらいはしていたし、プロの棋譜は追っていた。そして、後輩から大学将棋部の情報は入ってくる。

 距離が開いたなあ、と蓮真は感じていた。社会人になって、大活躍する人もいる。個人としても、そこそこやれるという自負が彼にはあった。ただ、いかんせんやる気が出てこないのである。

 帰宅して、靴を脱ぐ。玄関には、賞状が飾られていた。子供時代、将棋でもらったものである。

 個人としては一回も優勝できなかったが、団体戦では何回か代表になった。蓮真にとっては良い思い出ばかりとは言えないが、両親は誇りと思って飾り続けている。

「何してんのかね、乃子は」

 賞状に書かれた名前を見ながら、蓮真は言った。

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