乃子はそして階段を下りた
清水らくは
乃子は帰ってきた
1-1
庭で広い空を見て、心が少しだけ落ち着くのを乃子は感じた。学生の時は、実家は居心地が悪かった。自分は地元を出て行った人間で、きっと大学の近くで就職するのだという思いがあった。義務のように両親に顔を見せて、「大学は楽しいよ」と伝えるのがつらかった。
今は違う。明日も明後日も、ここにいていいのだ。独りではないし、誰かと勝負をしなければならないこともない。
ただ、一年後は? 五年後は?
遠い未来のことを思うと、気分は再び落ち込んでしまった。
乃子は実家に帰ってきた。大学の知り合いは一人もいない、地元に。昔の友人は近くにいるかもしれないが、連絡を取っていない。田舎なので、すれ違う人もそれほど多くない。何より乃子は、ほとんど外出しなかった。
大学院に行こうと思い、就職活動はしていなかった。しかし、彼女の気持ちは切れてしまった。何もかもが嫌になって、大学を中退することすら考えた。そのことを母親に言うと、「卒業だけはして、うちに帰っておいで」と言われたのである。
もうすぐ、五月になる。一か月近く、ただぼんやりと過ごしてきた。心の中のとげとげは減っていたが、もやもやは増えていた。
何もしないというのは、疲れる。
小学生のときから、ずっと将棋をしてきた。実は将棋関係の仕事を誘われてもいた。しかし乃子は、「もういい」と思ったのである。
将棋を離れよう。彼女にとっては、三度目の大きな決断だった。一度目は、プロを目指すかどうかを決めるとき。彼女は、目指さないと決めた。二度目は、将棋で大学に入るかどうか決めるとき。彼女は推薦で
そして三度目。仕事は、将棋では選ばなかった。将棋に縛られたくないと思った。その結果現在、無職である。
これまでは、将棋を頑張れば、道が開けてきた。けれども今後は、将棋なしの人生を考えていかなければならない。
空を見るのにも飽きた。
乃子は、家に入った。天井が狭かった。
何もかもがうまくいっている、と周囲からは思われていた。
立川乃子は、女性として初めて紀玄館大学将棋部のレギュラーになった。アマ女流
しかし、全く心は穏やかではなかったのである。
彼女にとって、将棋は友達と楽しむための道具だった。内気な彼女が、黙っていても誰かと時間を共にできるもの。地味な彼女が、地味であることをからかわれない場所。それが、将棋だったのだ。
それが、あのとき狂ってしまった。
なんで、浮かれてしまったのだろうか。今思い返しても、後悔ばかりが募る。
乃子は、四年半前の自分に言い聞かせたかった。「あなたの方が説得しなければならなかったのだ」と。
夜、乃子は将棋のにおいがしない部屋で眠る。元々彼女の部屋だったところは、母親の裁縫部屋になっていた。彼女がいるのは、弟の部屋だった。大学生の弟は、今は関東にいる。
弟はスポーツができて、頭がそこそこよくて、多くの友達がいる。唯一将棋では乃子が勝っていたが、すぐに弟は将棋をやめてしまった。姉に負けるのが悔しかったのだ。
強すぎると、失ってしまうものがある。推薦の資格を得てしまったばかりに、心が揺れてしまった。
もし、県立大学に行っていたら。何度も何度も、そのことを考えた。けれども、過去は変えられない。
不思議と、眠れないことはなかった。苦しみながら、乃子は深い眠りについていくのだった。
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