再会

金子ふみよ

第1話


 教卓の引き出しからバインダーを持ち上げながらニシヤマはため息をついた。そんなけだるさは見た一瞬で跳ね上がった。動悸が荒れる。冷や汗なんて初めてだった。

すでに放課後。誰もいないはずの理科室の、生徒たちがグループになって腰掛ける実験台の一席に女生徒がいた。理科部なんて部活動はない。ニシヤマが鍵を開け入って来た時にはもちろん彼が忘れ物を求めている間に扉を開ける音はなかった。

 ところが、ニシヤマはほんの数秒で我を取り戻した。動悸は止んではいない。むしろよりけたたましくなってさえいた。女生徒はこの中学校の制服ではない。けれど、彼には見覚えがあった。ニシヤマの出身中学のものだ。それに制服ばかりではない。突然現れた女生徒の柔和な視線に彼は

「サナエ、なのか?」

 たどたどしく、それでいて確かな答えを求める張りで確認した。

「久しぶり」

 ニシヤマは一飲みの唾が喉を通ると同時にその確信から熱が広がっていく胸を白衣の上から力を込めて握った。

「どうし……」

 喜びと困惑とをにじませた怒声は続かなかった。

「どうして会いに来たのでしょう。ニシヤマ先生」

 サナエは音もなくゆっくりと立ち上がり、からかうように、それでいてニシヤマにはきっと答えてもらいたい切望を含ませて近づいた。

 教卓を挟んで向かい合う。まっすぐに見つめて来るサナエの瞳からニシヤマは目を離そうとはしなかった。とたん、彼は慌てて腕時計を見た。時間ではない、日付を確認したのだ。

「今日って」

「正解」

 ニシヤマがすべてを答える前にサナエはにっこりと笑んだ。十二年前のこの日サナエは十五年の人生を終えた。落雷による感電死だった。ニシヤマが、人が変わったように高校入試までひたすら一心不乱に受験勉強を始めた日でもあった。同じ志望校でもサナエは余裕の合格圏内だったが、ニシヤマはギリギリの線にいた。結果彼は合格した。

 サナエの夢は理科の教員になることだった。それを彼女から聞いたのは視聴覚室で天体の映像を見る授業の後だった。教員から申し付けられた片付けの最中、いまいち成績の上がらないニシヤマを励ます流れで、吐露したのだった。

「それなら宇宙飛行士にでもなったら?」

 ニシヤマの素朴な疑問に

「遠くから眺めていたいの」

 柔らかいが真面目な答えだった。

「ナオだって言ってたでしょ。私に教えられるのは分かりやすいって。だからかな、そういうことに興味も出てきたんだよ」

(そう。ナオ、と俺をそう呼んでいたんだよな。サナエは)

 どうせ視聴覚室で参考資料映像を見るならと、プラネタリウムに行く約束をした。

 そんなことを思い出した。そしてプラネタリウムに行くのはサナエが亡くなった日の翌日のはずだった。

「ああ、そうか。俺、行ってなかったのか」

 つぶやいてから両手を広げて見た。さっきとは違う熱が胸に生まれた。それは全身へじんわりと広がって行く。彼は目の前のサナエを見つめた。あの日からの記憶が鮮明に高速で見せられている感じがした。

「思い出した?」

 サナエの一言で、もう何か月か何年か続く倦怠感につぶされそうになっていた体に力がみなぎるようだった。それはあのプラネタリウムの日に行おうとしていた一つの決意を再加速させた。

「サナエ、俺は」

 一歩出した。その続きの言葉を天使は背中を押そうとし、悪魔は喉をつぶそうとした。結果、天使がしり込みをした。

「サナエ」

 力ない声が漏れた。彼女はただ「ん?」と小さく喉を鳴らしただけだった。ニシヤマの言葉を待つとか催促するとか、そんな感じではなかった。

 ニシヤマの熱は目の周りに集まった。決壊寸前のそれはこの期に及んで勇気一つもためらう意気地なさへの情けなさと言えなくもない。会えるはずのなかった人へ思いを告げられるのに、それよりもこの再会と今こうして教員になっているその動機の確認とに十分な感無量を催していたのだ。それを見失って謀殺な日々に嫌気がさしていた最近。生徒たちに語るべきことを言えてない感じがした。(きっとサナエだったら、あんなふうには)。明日からの天体の授業で言いたいことができた。やる気と言うと軽々しいが、意欲いや興奮のような拍動が始まっていた。

「もう大丈夫だね」

 サナエは小さく言って後ずさりをゆっくりしだした。

「サナエ、待ってくれ。もう会えないのか」

 作りだれていく距離はあの時のようにニシヤマには思えてならなかった。夕方まで会っていたサナエがもうどこにもいないと知ったあの時。

「また会えるよ」

「サナエ!」

 理科室の後ろの壁間際まで進んだ彼女に手を伸ばしながら駆けようとした。

「ニシヤマ先生、こちらでしたか」

 いきなり開いたドア。教頭だった。

「どうかしたんですか?」

 すっとんきょうな声の教頭の目には手を伸ばしながら教卓から身を乗り出している理科教員の姿。

「いや、なんでも」

 取り繕うようにストレッチみたいな動作をしながら教室の後ろをちらと見た。もうサナエはいなくなっていた。

「サナエ」

 つぶやきは教頭には聞こえなかった。

「ニシヤマ先生、新しく赴任してもらうことになった先生を紹介します。校内を案内してましてね、教務室にニシヤマ先生はいなかったので。さあ、どうぞ」

 ニシヤマは白衣を直してドアに近づいた。教頭の手前感傷に浸ってはいられない。

「初めまして、理科のニシヤマで」

 廊下からドアへ現れた女性教諭にニシヤマは息をのんだ。

「ハモリサナエです。よろしくお願いいたします」

 一礼から身を上げたその女性教諭は名前がサナエと同じばかりではなかった目も鼻も口も耳もサナエと瓜二つだった。

「あ、はい。よろしくお願いいたします」

 ニシヤマも一礼をした、高速で。それから、まじまじと見てしまっていたのだろうか、

「ニシヤマ先生、もしかして一目惚れですか。いいですなあ、お若い者は」

 教頭から今にも高笑いしそうな勢いの陽気な声をかけられた。

「いや、それは」

 胡麻化すしかない。不器用でも取ってつけたようになったとしても。

「教頭先生、至急教務室までお戻りください」

 その時校内放送が鳴った。教頭は校内の案内をニシヤマに委ね、そそくさと行ってしまった。ほっとするニシヤマだったが、

「プラネタリウム」

「え?」

 新任教諭が唐突に言うものだから食い気味になってしまった。語気が強くなってしまったとしたら、それはさっきまであの頃と同じサナエがいたせいだろう。

「私まだ行ったことないんです。理科教諭なのに」

 クスリとした笑い方もサナエと同じだった。だからだろうか、

「だったら今度行きますか? 俺も行ったことないんで」

 すらすらと誘っていた。今度の天使は悪魔に負けなかった。

「ええ」

 彼女には戸惑いはなかった。柔らかい返事だった。

「えっと、校内案内でしたよね。どこ見られました」

 初対面で誘ってしまったことがあまりに軽薄に今更感じられて、ニシヤマは教頭から仰せつかった役を言い訳にして、拙い手つきで理科室に鍵をかけると廊下を歩き始めた。

まもなくである。ニシヤマはすぐに背筋を伸ばすようにしてから振り向こうとしてちょっとで止め、また歩き出した。彼には

「あの時とおんなじ誘い方だったね」

 とハモリサナエがつぶやいたように聞こえたからだった。

彼女は嬉しそうに彼の背中を見つめていた。

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