数年が経った。安奈はたまに寄り道をする古書店の店頭で、「シュルレアリスム」とフランス語で書かれた大判の一冊を見つけた。あ、と思って店に入り、手に取ると、それはあの日自分が最後の試合をすっぽかして行った国立新美術館の展覧会カタログだとわかった。「2011年5月1日」という日付が咄嗟に蘇った。カタログによればこの展覧会は5月9日までだったそうだから、終了間際と言っていいタイミングで安奈は足を運んだことになる。

 実は安奈は、心の中ではうっすらとこの本を探し続けていたのである。あの時このカタログを買わなかったのは、高校生の小遣いではちょっとためらう金額だったし、家に持ち帰っても何らかの形で家族の目につくことは避けられないだろうと思われたからだ。それに、あのマルセル・ジャンの絵は、あくまで安奈の肉眼で捉えた印象を全てとして記憶に留めておきたかったのである。しばしば実際の作品と、美術書に収められたそれの印象がまるで異なることを、安奈は叔母から聞いていたし、自分でもそう感じることがあったからだ。

 しかしそう思いながらも、あのマルセル・ジャンという画家は日本ではほぼ知られていないのだろうし、他に作品を見ることのできる機会もなさそうなので、この人の唯一の手がかりと言えそうなあの展覧会のカタログはいずれ手に入れたいと安奈は思っていた。

 展覧会のカタログは基本的にその展覧会の会期限りの流通なので、終了後に入手しようとすると高くつくものである。しかしこのシュルレアリスム展のものは古書としてあまり需要がないのか、元の値段より安い値札が貼られていた。安奈は迷わずレジに向かった。

 偶然、まさにマルセル・ジャンの絵が収録されているページにチラシがはさまれていたので、いきなりその絵を見ることができたのだが、安奈は実際、何の感動も覚えなかった。

 「眠りの番人たち」と題されたその絵は、ベージュのような鈍く沈んだ色の空を背に、その空に向かって山岳めいたゴツゴツした塊が地面からむくむくとわだかまっている。手前にはギリシャ風の神殿の一部のような複数の構造物の断片が無秩序に置かれている。その右奥では大きい板チョコに似た観音開きの扉がまさに開かれようとしており、扉のすぐ左手には青い三日月が浮かんでいる。

 改めてじっくり画面を眺めていくと、描かれている要素やその組み合わせはいかにもシュルレアリスム的だが、それにしてもあの時の自分はどうしてこの絵に魂をさらわれるような感動を覚えたのだろう。本当にこの絵だったのだろうか。やはり印刷物と実物との印象の違いによるものか。十代の自分に比べて、今は感受性が鈍ってしまったということなのか。

 安奈は他のページもぱらぱらとめくってみたが、そこに印刷された絵はどれも皆記憶になかった。あの日、全ての作品をこの目で見たはずなのに、安奈は例のマルセル・ジャンの一枚しか覚えていない。そして肝心のその絵は、十年近くが経過した今見返しても、何の感動も呼び起こさないのだ。だとしたら、安奈にとって、2011年5月1日というあの日は、一体どんな意味を持っていたのだろう。

 その時ふと安奈の脳裡に、「心にも季節がある」という言葉が浮かんだ。全く唐突だったが、どこからやって来た誰の言葉なのか、安奈にはすぐわかった。これを発したのは木下杢太郎である。


 大学院生になった安奈は、木下杢太郎をテーマとして修士論文を書いており、杢太郎の遺した「百花譜」の最初の方にこの言葉があったのを記憶が呼び覚ましたのである。「百花譜」は晩年の木下杢太郎が、太平洋戦争末期に手がけた植物のスケッチで、そういう慌しい世の中にあって成り立ったとは思えない静謐と詩情に充ちており、それでいて正確に一つ一つの草花の特徴を掴んでいる。安奈は図書館で見たこの「百花譜」がきっかけで木下杢太郎に惚れ込み、ついに研究を始めたと言ってもいい。「心にも季節がある」というこの言葉は、ソメイヨシノを描いた一枚に杢太郎が寄せていたちょっとしたメモ書きだったな、と思いながら、安奈は手元にある『新編 百花譜百選』をめくった。次のように書いてある。


「わかかった時分桜の花は美しいと思ひ、そのうちでも染井吉野がもっともあはれ深いと感じた。中春の夕方の気分といふものは名状しがたいものであった。今年は春が寒くて花がわるいが、今日伝研でつくづくと之を眺めて見ても殆ど感興らしいものが涌かない。心にも亦(また)四季が有る。 昭和十八年四月十二日」


 安奈はホッと息をつく思いがした。よくある勘違いで、「季節」ではなく実際は「四季」だったが、大きな違いではない。たぶん安奈の心はあの時、あのマルセル・ジャンの絵に強く反応する「四季」の中にあったのだろう。そしてきっと、その「四季」とはその時限りのもので二度と戻ることは出来ず、かつてそういう時期があった、と後から振り返ることしか許されないものなのだ。

 人はそのようにして、日々移り変わっていく。ついこの間まであんなに好きで仕方なかった人やものが、今は特別な気持ちを何ら呼び覚まさない。どうしてそうなるのか。なぜ人はあるものを美しいと感じ、または嫌なものと感じ、あるものを愛し、別のものを切り捨てたくなるのか。それは心の中の「四季」が、現実のそれと同じように推移していく中で自ずと決まっていくのであり、自分のことでありながら細かい仕組みはわからないのである。移り変わっていくがままに、身を任せていればいいのである。

 安奈は木下杢太郎の言葉を心の中で解きほぐしていくうちに、こんな考えに落ち着いた。「心にも亦四季が有る」という杢太郎の一言が、自分の中でやさしく反響しているのを感じた。誰しもが、こうして自分でも気づかないくらい僅かな変化を重ねながら生きているのだろう。それはとても尊いことだ。その思いは一筋の清水のように、安奈の心を貫いて深いところへ降りていった。

 今の自分はどんな「四季」の中にいるのだろう。安奈はふと思った。しかしその「四季」とは、春や夏というように単純に四つに区切れるものではなく、春なのに雪の降るほど寒い日があったり、冬なのに汗ばむほどの陽気の日があったりするように、ちょっと入り組んで複雑な表情を持った「四季」ではないかと思われた。

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四季 佐伯 安奈 @saekian-na

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