安奈の住む町にはついぞ見られない高層ビルが軒を連ねている。どこにも人影はなく、広い車道を走る自動車もない。無機質なビルの窓の向こうでは、住人は寝息を立てていて外の世界の様子には何も気づかないのか。それともここはオフィス街で、出勤時間にはまだ早いため、どのビルも無人の空洞なのか。今突然核戦争が始まったとしても、あの窓の列の向こうの静寂はびくともしないだろう。そんな平静な世界が存在することが、安奈には羨ましかった。安奈は眠りのさなかにあるかのような静まりかえった町を歩きながら、異邦人という三文字が胸をよぎるのを感じた。言うまでもなく、自分自身のことである。

 安奈はそれまでも、叔母と一緒によく美術館へ行くことがあった。父親の何人もいるきょうだいとは、父親に対してと同様、あまり折り合いの良くなかった安奈だが、この叔母とはウマが合ったのである。気難しいところのある安奈の性格は、血のつながりを持ったこの子どものない中年女性とも通じていたのだろうか。安奈は月に2回は目ぼしい展覧会を見つけてはあちこちの美術館へ足を運ぶという叔母の「お供」をすることがよくあった。そして美術館を出た後は必ず、どこかしらの穴場らしいカフェでランチを奢られながら、さっき見たばかりの絵の話や学校の話、叔母の仕事の話や夫の話やペットの猫の話で盛り上がるのだった。

 美術館に入ったのが何時頃だったのか、つまりどれほどの時間、静かな都会の中を歩き回っていたのか、安奈はもうよく覚えていない。ただ料金を払って会場を歩いていくうち、これはずいぶん「重量級」の展覧会だな、と感じた記憶は今も鮮やかだ。つまりは出品数が多いということで、これはよく叔母が使っていた言い草だったが、安奈もその頃には既にそういう感覚はわかるようにはなっていた。それでも、もともとシュールと言われるものに惹かれる性質だったし、例えばリュックにつけているキーホルダーの趣味を、友人からそう表現されることもままあった安奈には、十分楽しめる内容だったのだ。ダリやエルンストやマグリットといった、このグループを代表する人たちの作品が当たり前のように並んでいるのを見て、頭の中にただ知識としてあっただけの人名が、立体的な一人の人間としてムクムクと起き上がってきたような気がした。それにメジャーとは言いがたいが、安奈が前々から特に惹きつけられていたポーランドの女性画家、トワイヤンの作品が展示されているのもとりわけ嬉しかった。

 しかしこの日安奈に忘れがたい印象を刻み付けたのは、それまで全く聞いたことのない、もちろん見たこともない画家の一枚だった。

 その絵を目にした瞬間、安奈は文字通りその前から動けなくなった。完全に絵に心を奪われたと思った。あたかも画面から見えない触手が伸びてきて、安奈の心を余さず掴み取り、さらに魂と呼ばれる場所までその触手はまっすぐ進んできそうに思われた。

 マルセル・ジャンという画家の絵だった。時たま叔母から借りる画集のお陰で、シュルレアリスムのメンバーとして知られる人は大体把握していたつもりだったが、この人は完全に未知の画家だった。しかし、誰が描いたかなど構わない。安奈はただひたすら、マルセル・ジャンのこの一枚に強烈に惹きつけられたのである。この日安奈の心に渦巻いていたはずの悔しさや惨めさやほんの少しの罪悪感、そして今頃安奈以外の三年生が打ち込んでいるはずの引退試合も、今はどこにも存在しなかった。それどころか、ただ安奈とこの絵しか、2011年5月1日のこの世界にはありえないとすら思われた。

 どれほど長い間、安奈はこの絵の前にいたのだろうか。それが果てしなく長い時間に思えるのは、自分ではドライな性格だと信じている安奈の心にも潜んでいるある種の感傷のせいだろうか。この展覧会に関してもう一つ覚えているのは、会場の売店で、岩波文庫版の『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』を買ったことである。この本の表紙には、著者アンドレ・ブルトンの鼻の高い横顔が印刷されていた。それが、きっとこの人は自分の容姿に自信があって、一番ハンサムに写る角度の研究に余念がなかったに違いないと思わせるようなポートレートで、安奈は思わず吹き出しそうになった。こういう人は昔からいるし、みんなカメラが搭載されている携帯電話を持つようになった今の時代の方が増えているに違いない。安奈はブルトンの写真に出くわすたびにそんな風に感じていたが、この表紙の一枚を見た時、どうしてもそうとしか思えなくなったのだ。大体シュルレアリストは、数ある歴史上の美術グループの中でも一際「仲間意識」が強かったのか、よくメンバーの集合写真を撮っているが、結局あれは端整な自分の姿を残しておきたいというブルトンの願望によるものだったのではないだろうか。つまり他のメンバーの有るなしはどうでもよかったのではないか。また、このブルトンという人はシュルレアリスムの総帥であるとの意識が必要以上に強く、そのため自分と対立したメンバーをしばしば「除名」していたそうだが、この自意識とプライドの権化みたいな風貌の持ち主ならやりそうなことだと思われた。ふと安奈は自分を今日この場へ追いやる最大の原因を作った顧問の顔を思い出した。安奈のような意固地な側面のある性格では、たとえシュルレアリストの一員になったとしても、すぐブルトンによって亡き者にされてしまっただろう。

 文庫本は、この展覧会のために特に製作されたらしい、フランス語の単語が無秩序に散乱している茶色のカバーに包まれて安奈に渡された。単語の意味は一つもわからなかったが、それだけで何だかおしゃれに感じてしまうのは日本人の悲しい性なのだろうか。

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