四季

佐伯 安奈

 2011年5月1日は、安奈にとって忘れ得ない一日である。高校三年生だった安奈には最後となる部活の引退試合がまさにその日に予定されていたのだ。安奈は小学生の頃からその競技を始め、中学、高校と迷うことなくそれを専門とする部活に入った。特にその競技が好きでもなく、ただ惰性と太りたくないという年頃特有の思いから続けていたに過ぎなかったのだが、それにしても引退試合のはずなのにメンバーどころか補欠にすらエントリーされなかったのには神経をメリメリと倒されるような気がした。安奈が取り組んでいたのは団体競技だった。そして安奈以外の三年生は、みなメンバーか補欠にはちゃんと入っていたのである。

 もちろん安奈自身の実力が、他の三年生より劣っていたことはあっただろう。ただ安奈は、その時顧問をつとめていた、大学を出てまだ間もないと思われるゆで卵のようにぺろりとした顔つきのいかにも軽薄そうな青年教師を本能的に嫌っていて、ことあるごとにその悪口を同じ三年生や後輩にしゃべっていた。だから、それが顧問教師の耳に入るかして心象を悪くしたということも十分に考えられたのである。そうでもなければここまで露骨に安奈を「使わない」ということは考えづらかった。教師は決して生徒に公平ではない。多くの場合、彼らは単に生徒に対する自分の好き嫌いや、生徒が自分を好んでいるか嫌っているかで様々なことを判断するのだ。子どもの大半は、実に教師によってこそ人生最初の不条理を味わわされるのである。安奈は今でも頑なにそう信じている。それがために、教師だった両親の後を追うようにして自分も教壇に立つ道を選んだ妹ともすっかり疎遠になってしまったが、安奈は別にそのことを悔やんではいないのである。

 ところで安奈はその日、2011年5月1日、自分が出場することのない引退試合には行かなかった。朝、地元の駅に着いてすぐ、一人の後輩に「急に発熱したので休む」とメールをして、さぼったのである。後から考えると、部長をつとめていた同じクラスの生徒にそれを伝えなかったのは、さすがにバツの悪さを感じていたからだろう。毎日、誰彼のつまらない噂話や、例の顧問の悪口で笑い合っていた仲だったのだから、なおさらである。後輩からは程なくして、大事にするようにと返信が来た。何も知らない両親からは、安奈が小学生以来その協議を続けてきたことをねぎらう文面のメールが届いた。何にもわかってない奴等だと思った。今までも、これからも、この人たちは自分の本当の姿を理解しようとはしないはずだ。

 安奈は試合の出場者が卵づらの顧問の口から発表されたその日から、一人で別行動を取ることに決めていた。安奈はちょうど国立新美術館で開かれていた「シュルレアリスム展」に行きたかったのである。

 安奈と同じ町に住んでいる後輩たちも数人いて、いつもよその町に遠征する時と同様、その日も皆で集合して現地に向かう予定だった。安奈はそれを見越して、あえて1時間早く後輩にメールをして電車に乗ったのである。地元の町からだいぶ離れた県境に近い駅にさしかかった頃、安奈は時計を見た。本来の集合時間である。後輩たちはきっと安奈の話をしているだろう。勘のいい誰かは、安奈の「発熱」を仮病と見破っているかもしれない。しかしそんなの知ったことではない。卒業してしまえば、もうあの人たちとは何の関係もなくなるのだ。それに理屈から言っても、今日を最後に安奈が部室に姿を現す理由はなくなるのである。

 それまでも友だちと一緒に都内に出たことは何回かあったが、国立新美術館のある地下鉄駅に行くのは初めてだった。もともと方向音痴のひどい安奈は、都内の路線図の複雑さを見るだけでめまいがしてくるようだったので、ある意味試合に出られない悔しさが、安奈にこういう大胆な行動を取らせたのだろう。案の定、乗り換えの段階で少しまごついたが、どうにか安奈はその地下鉄駅にたどり着いた。しかしそもそもの出発時間が早かったので、美術館の開館時刻まで、だいぶ間があったのである。そこで安奈は、駅を出てその周囲を歩いてみることにした。

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