第2話 ブルックナーはスポーツだ
大学の授業のチャイムの音が鳴る。
「では今日はここまでとする」
教官の声と共に教室の空気は柔らかく緩んだ。同じ姿勢をとり続けて固まっている背中を伸ばし、僕は心地よい気分で窓の外を眺めた。外は気持ち良い五月晴れだ。
やっとお昼か。今日は代々木もいないし、一人で学食に行くか。ノートをカバンに詰めながらそんなことを考えていると、背後から声をかけられた。
「今日は代々木君、お休みなんだね」
心地の良い中高音のこの声は、と慌てて振り返ると、予想した通りの人がそこに立っていた。
「白鳥さん!」
どぎまぎして僕ははにかんだ。血色の良い白い肌に紅が差し、つやつやとした黒髪に光が射して目映いばかりの白鳥さんは、明るく笑って首を傾げた。
「良かったら一緒にお昼食べない?」
***
昼どきの学食は学生達でいっぱいで、食事を載せたトレイを持った僕らは部屋の隅の方にようやく空いて居る席を見つけて腰を落ち着かせた。
「唐揚げ丼美味しそう!」
白鳥さんが僕のトレイを見てにっこりする。お金もなく野菜も好んで食べない僕はいつも単品のどんぶりものばかり食べているのだが、それにひきかえ白鳥さんは焼き魚定食にサラダも添え、バランスの良さそうな組み合わせをチョイスしている。さすが美人は食生活まできちんとしているんだな。感心しつつ白鳥さんの笑顔に見とれて鼻の下を伸ばしていると、白鳥さんは不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
「食べないの?」
「食べる食べる」
慌てて右手で箸を持ち、もう一方の手でどんぶりを持ち上げて掻き込む。ちらりと白鳥さんを見ると軽やかな手つきで箸を持って綺麗な仕草でご飯を口に運んでいる。やっぱり僕とは育ちが違うよなと思い、胸がちくりと痛くなる。白鳥さんと僕って釣り合わないかなあ。
複雑な気持ちになる僕の心のうちなどつゆ知らず、白鳥さんは何か思い出した様子で話しかけてきた。
「五反田君、オーケストラのコンサートって興味ある?」
「え? もちろん興味大ありだよ!」
即答が過ぎたのか、白鳥さんは可笑しそうにクスクス笑いながらカバンからチラシを出した。そこにはヨーロッパのオーケストラの名前と指揮者、ホール名と日付が印刷されている。演奏会は土曜の夜と日曜の昼に行われ、それぞれ違う曲を演奏するようだった。
土曜のメイン曲はチャイコフスキーの交響曲第五番、日曜はブルックナーの交響曲第五番、かあ。チャイコフスキーという名前は聞いたことがあるがブルックナーという名は知らないな。どんな曲なんだろう。
首を傾げていると、白鳥さんは土曜日の演目を指差して僕を見上げた。
「良かったら、チャイ5、一緒に聴きに行かない? アマチュアオケでもすごく人気のある曲だから五反田君も楽しんで聴けると思うな」
チャイコフスキーの交響曲第五番はチャイ5と略すんだね。白鳥さん、クラシック初心者の僕に配慮してくれるなんて優しいなあと思いながら僕は一も二もなく頷いた。
***
当日の待ち合わせ場所など軽く相談した後、白鳥さんは午後一の授業があるからと先に席を立った。
「おっ、五反田じゃん。ここ座っていい?」
トレイを持つ内藤が声をかけてきた。さっそく僕は白鳥さんとデートすることになったことを自慢することにする。
「苦しゅうない。座りたまえ」
「何なのお前。何かむかつくな」
テーブルの上に置いた内藤のトレイにはカツカレーの単品が載っている。
「お前、オケの部員のくせにカレーばかり食ってさあ。少しは白鳥さんを見習ってバランス良く食せよ」
「カレーは完全食だろうが。どんぶりものばかり食べてるお前にとやかく言われたくねえよ」
何だか調子に乗ってるな、とでも言いたげな目で内藤が僕を眺める。一呼吸置いてから、やむを得まいという表情で問いかけてくる。
「何かいいことあったのか?」
「よくぞ聞いてくれた! 実はさぁ、白鳥さんに演奏会に誘われちゃってさあ」
「ふうん。今度の日曜のブル5か?」
いきなり鋭いところを突いてくる内藤に焦る。そうだ、こいつは腐ってもオケのメンバーだった。白鳥さんの心の中などお見通しなのかもしれん。
「惜しい。土曜日のチャイ5だよ」
僕としては略称で答えて彼らの仲間入りをしたつもりで得意満面だったのだが、内藤は目を見開いて僕を見た。
「何だと?! ブル5じゃないのか? まさか!」
どうも内藤の反応がおかしい。世も末だという表情で首を振り、天を仰ぐ。
「五反田。貴様、自分が思っているよりもずっと、白鳥に愛されているかもしれんぞ」
「は?」
急に貴様呼ばわりかよ。それに全くもって意味が分からない。白鳥さんに愛されてるってのが本当だとするとそりゃ嬉しいけれど、あまりにも脈絡がなさすぎてからかわれているようにしか思えない。
「日曜日はオケの練習があるから土曜日にしたんじゃないの?」
「その週のうちの練習は土曜の昼間だけだ。よそのオケの指揮トレも入っていない。少なくともそれが理由ではないはずだ」
シキトレって何? と思ったけれど、それを聞くと内藤が調子付いてどんどん脱線していってしまうから、きっと大事な練習のことだろうと納得することにする。
「でもさあ、そんなの好みの問題じゃないか。白鳥さんはきっとブルックナーよりチャイコフスキーの方が好きなんだよ」
「通常ならばそうだろうな。チャイ5が嫌いな奴などこの世に存在しないだろうからな。分かりやすくワクワクできるし、間口が広いのはチャイ5だ。貴様のようなクラシック素人を連れていくには合格点な選曲だな」
嫌いな奴が存在しない、とはまた大きく出たな。つっこもうかと思ったが内藤が真面目な顔をしているので黙って頷いて、続きを促す。
「でもな、今回は事情が違うのだ。何故だか分かるか」
「いや、さっぱり」
「次回の定期演奏会でうちのオケが演奏するメイン曲は、ブルックナーの交響曲第五番変ロ長調なのだ!」
「ほほう」
軽く相槌を打った僕を見て、内藤は物足りなさそうな表情を浮かべた。
「それだけ? ブル5だよ? もっと違うリアクションないの?」
「どんなリアクション?」
「学生オケでブル5やるの? 信じられない、すごいね、絶対聴きにいくよ、とか?」
「だってブルックナー知らないし」
「やはり白鳥の判断は正しいようだな。貴様にはチャイ5が似合いだ」
内藤はカレーをスプーンで一口食べて物憂げに溜め息をついた。さっきまでチャイコフスキーを持ち上げていた舌の根も乾かないうちにディスるなんておかしくない?
内藤は水を飲んで一息ついた後、僕の方に身を乗り出してきた。
「いいか? ブルックナーの五番なんて、東京ならいざ知らず、プロオケのコンサートの開催数も限られている地方ではなかなか生で聴く機会もないんだ。それが、今度定演で弾くってときに、オレ達のこと知ってるんじゃないかというくらいの奇跡的なタイミングで演奏される。そして彼女はブル5のコンミスだ。どう考えてもブル5を聴きたいに決まってるだろ」
「そう言われるとそうだね」
やっと腑に落ちた僕に、内藤は呆れた顔で言った。
「チケットもそれなりに高いから両方行くというわけにもいかないだろう。究極の選択で彼女はチャイ5を選んだ。それはひとえにお前、五反田誠のためにだ。素人すぎてブル5を楽しめないお前のために、自分の想いをこらえてチャイ5を選んだのだ。それなのにお前という奴は、白鳥さんの心も知らず、脳天気に喜びやがって。お前は愛が足りないんだよ。音楽に対しても、白鳥さんに対しても」
「そんなことな…い……いや、あるか」
内藤にそんなことを言われるのは悔しいけれど、僕は白鳥さんからコンサートに誘われただけで有頂天になっていて、彼女が何を考えてどういう選択をしたのかにまで思い至ることがなかった。内藤に指摘されなければ、ウキウキとデートを楽しんで、それで終わりだったかもしれない。それはそれでいいのかもしれないけれど、白鳥さんのことをもっと良く知る上では裏の事情まで思いを馳せる必要がある。そう考えると、彼の言うことにも一理あるように思えた。
考え始めた僕を見て内藤は満足げに頷いた。
「それでいい。恋に思い悩め、若者よ」
内藤は食べ終わったカレーの器が載ったトレイを手に、背中を見せながら片手をひらひらさせて立ち去った。
白鳥さんにとってのよりよい選択肢は何なんだろう。僕はそんなことを考えながらしばらく一人、人がまばらになってきた食堂で物思いに耽ったのだった。
***
白鳥さんの授業が終わった頃を見計らってスマホでメッセージを投げると、すぐに返事が帰って来た。大学敷地の中央にある噴水の前のベンチで晴れた空を見上げていると、白鳥さんが早歩きでやってきた。
「待たせちゃったかな? ごめんね」
「ううん、今きたところ。こちらこそ急に呼び出しちゃってごめんね」
僕は一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、話を切り出した。
「さっき誘ってくれたコンサートのことなんだけど」
「うん」
白鳥さんは無邪気な笑顔で僕を見る。こんな可愛い子が、僕を愛している? まさか。先程の内藤の言葉を思い出してしまいそうになるが、グッと堪えて僕は白鳥さんは見つめた。
「白鳥さん、本当にチャイ5でいいの?」
「えっ?」
白鳥さんは驚いた様子で僕を見た。オケの人間でもない僕からそんな話題を切り出されるとは予想もしていなかったのだろう。
「内藤から聞いたよ。今度ブルックナー交響曲第五番を演奏するって。だとしたら、白鳥さんが今一番聴きたいのは、もしかしてブルックナーなんじゃないの? だとしたら、僕はそちらの演奏会に行きたいな。あっ、もちろん白鳥さんの都合が良いようだったら、だけど」
「でも、五反田君はブルックナー知らないよね? 五番だと結構長いし、正直取っ付き難いかもしれないよ?」
白鳥さんは心配そうに僕の顔を見上げてくる。内藤が言っていたとおりだ。僕を配慮しての選曲だったのだ。オケ事情にまつわる内藤の発言の正しさに僕は今更ながら感慨を覚えた。
僕のことを考えてくれたのはとても嬉しいけれど、白鳥さんに我慢して欲しくはない。それも、滅多にプロオケが演奏しない曲なのだったら、このチャンスを逃してはいけないだろう。
「ごめん、正直に言うとブルックナーって作曲家のこと知らないよ。でも、白鳥さんが今本当に聴きたい方を選んで欲しい。それに、僕も白鳥さんとこのオケの演奏会聴きにいくときのために予習しておきたいしね」
我ながら格好をつけているなと思いつつ白鳥さんの様子をうかがう。彼女はしばらく放心したように黙り込んでいたが、やがて顔を上げた。彼女の目は潤んでいた。
「本当にいいの、五反田君?」
えっ、白鳥さん感激してるの? こんな簡単なことでそんなに喜んでくれるなんてお安い御用だよ! 僕は一も二もなく頷いた。
「もちろん!」
「ありがとう。五反田くん!」
白鳥さんは極上の笑顔を浮かべた。目映すぎて直視できないくらいだった。少し不謹慎にも、白鳥さんって案外チョロいななどと思いつつ、僕も満面の笑顔を彼女に返したのだった。
***
当日。僕は心底後悔していた。コンサートホールの舞台には海外のオーケストラが鎮座している。既にメイン曲が始まって数十分ほどが経っていた。
ただでさえ、着慣れないジャケットなど羽織っていつもより窮屈な格好の僕は、コンサートホールの客席に座り、身動きも許されない状況の中でやるせなく固まっていた。
先程、やっとブルックナー交響曲第五番の一楽章が終わった。一楽章だけで20分かかった。そしてまだ二楽章も終わる気配を見せない。
ブラームス交響曲第一番の一楽章の繰り返しにもめげなかった僕は、どんな長い音楽にも耐えられる自信を培っていた。でもそれは自惚れに過ぎなかったことを僕は痛感していた。
いや、ブラ1の一楽章だって20分かかっていた。だから僕の認識は大きく外れているわけでもないはずだった。しかし、この曲は、ブラームスのように様々なメロディーが入れ替わり立ち替わり楽しませてくれるのではなく、羊羹のように分厚い和音の構成が延々と続くのだ。そういえば白鳥さんが演奏前に、ブルックナーはパイプオルガン奏者だったと教えてくれた。この宗教音楽のような和音の連なりは、そのことと無関係ではないのだろう。
それにしても、この曲は一体どこに向かっているのだろう。到達しそうで到達しない。すっきりしないまま延々と焦らし続けられるような、スケールが大きく、それでいて宗教音楽にしては自由な音の重なりに、僕は疲れ果てていた。
二楽章に入って、ようやく弦楽器の可愛らしいメロディーも出てくるようになってそれは楽しかったが、いかんせん長すぎる。二楽章とは短いものだという先入観があったが、この作曲家に関してはその理解は正しいとは言えないかもしれない。
どんな顔で聴けばよいのだと思いながら隣を見ると、上品な赤いワンピースを着て可憐な装いの白鳥さんは、目を輝かせて弦楽器の演奏に視線を釘付けにしている。彼女のこんな輝いた目を見るのは初めてだ。そして、この音楽でこんなにもうっとりした表情を浮かべられる感覚が、僕には良く分からなかった。
やはり彼女は、僕とは違う世界の人なのだ。別次元の価値感で音楽を聴いている。
今回、僕はこの曲を予習していなかった。このコンサート自体が白鳥さんのオケの定期演奏会の予習にあたると判断したためだ。
内藤の「愛が足りない」という言葉を思い出す。きっとこういうところなのだろう。このときばかりは、ツメが甘い準備不足の自分を呪った。
この後3楽章、4楽章と続くはずだ。白鳥さん、チョロいなんて思ってごめんなさい。僕は心の中で懺悔した。
白鳥さんに相応しい男になるには、僕はもっともっといろんなことを勉強しなければならないようです。
***
もう70分ほどの時間が経過していた。音楽は最高潮に盛り上がり、そして弦楽器はひたすら小刻みに音を刻み、管楽器が分厚い大音量の音を吹き鳴らす。これはきっと終わりだ。やっと、曲が終焉を迎える。そのときには、僕の中には何だか良く分からない昂揚感が生まれていた。この気持ちは、例えるならば後少しでゴールするマラソン選手の応援に似ていた。
後少しだ。頑張れ。精一杯力を振り絞って演奏し尽くすのだ。僕も辛い。でも演奏している貴方たちは、きっともっと辛い。でもそこから生まれる感動のようなものが僕の心を満たしていた。
何度も何度もしつこく繰り返される同じ和音。まだ終わらないのか。まだか、まだか。指揮者が、これが最後だとばかりに一際大きく棒を振り、皆は力を振り絞って最後の音を鳴らした。大きな会場内に和音の残響が広がる。
終わったのか? 終わったんだな! やりきった、という満足げな表情を浮かべる舞台上の演奏者たちが目映い。白鳥さんの笑顔と同じくらいにまぶしく見える。
最後の和音の残響が消えて一呼吸した後に、ホール全体から割れんばかりの拍手が沸き起こる。僕も、いつの間にか我を忘れ、興奮して激しく手を叩いていた。
指揮者が満面の笑みで観客を振り返り、一礼する。そして頑張った演奏者たちを称えるように大きなジェスチャーをした。拍手は鳴り止まない。活躍した奏者たちを順番に立たせ、指揮者も奏者に拍手を送っている。
僕は感激していた。クラシックなんて、上流階級の人たちがお上品に楽しむものだと思っていた。でもこれは、想像していた世界とは違った。
この感覚、何かに似ている。僕はしばらく考えた。そうだ、この感じ、スポーツ観戦に似ている。
***
昂揚感に包まれながら僕たちはコンサートホールを後にした。
「すごい演奏だったねえ!」
白鳥さんが興奮冷めやらぬ様子で僕を仰ぎ見た。
「白鳥さん、あんな曲演奏するの? すごすぎるんだけど」
「えへへ。うちもあんな素晴らしい演奏ができるといいんだけどね。もっと頑張らなきゃなあ」
あきらかにモチベーションが上がっている白鳥さんを見ていると、ブル5を聴きにいこうと提案して良かったと心から思う。
「白鳥さんってあんな曲も好きなんだね」
「うん。ブラームスもいいけどブルックナーにはまた別の味わいがあるよね」
曇っている空の雲の間から、太陽の光が現れる。振り返ってこちらをみている白鳥さんの背後から光が射して、僕は思わず目を細めた。明るい光に包まれた白鳥さんは神様の遣いのように神々しい。
ブルックナー交響曲第五番の素晴らしい演奏を喜んでくださった神様が、褒美として天使を白鳥さんに模して地上に遣わしてくれたのではないか。そこまで妄想したところで慌てて頭を振る。そんな訳はない。白鳥さんは僕と同じ一人の人間だ。過剰な神聖化は彼女にも迷惑だろう。
でも、また違った白鳥さんの一面を目にすることができた今、僕にとって彼女は今まで以上に深みのある魅力的な女性に見えるようになったのは確かだった。
こんな良い曲をこの世に残してくれてありがとう、ブルックナーさん。僕は心の中でつぶやいた。
「僕、ブルックナーにすごく興味湧いてきたな」
「本当に? じゃあ今度、ブルックナーに関しての本を持ってくるね。うちにいっぱいあるから」
嬉しそうに言って、白鳥さんは満面の笑みを浮かべた。
これから僕は、ブル5を聴く度にきっとこの日のことを思い出すだろう。
僕にとっては、クラシックに対する価値感と白鳥さんに対する印象をひっくり返され、そして今まで以上に彼女らを好きになるきっかけを作ってくれた、そんな思い出に残るデートになったのだった。
バイオリンの彼女と仲良くなる方法 狗巻 @makiinu
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