第10話 時は来たりて……
シンクロニシティ、というのがある。漢字で書けば「共時性」だけど、それは言い換えれば「しかるべき時が来た」という意味だと、個人的には思う。
それから、燕原さんと会うことは少なくなった。
いや、それにはちゃんと理由がある。単純に僕が、夏休みの宿題のことをすっかり忘れてて、未提出の失態を避けるために、結構家で必死になっていたからだ。
やがて八月も後半に入り、我が家的にはお盆の墓参りもつつがなく終わり、そろそろ夏休みが終わらんとしている頃だった。おかげさまで、宿題も全部片付いた。
外は相変わらず酷暑だったけど、だからって、引きこもっているのももったいない気がした。ニュースでは「危険な暑さ」だと連日言っている。「不要不急の外出は控えろ」とも言っていた。
ただ、その日。「海を見に行かなきゃ」と思った。なぜかなんて、まるっきり分からない。衝動に駆られた、というのが、多分一番正しいだろう。
陽が傾き、夕暮れの色に染まり始めた頃、外出着に着替え、近場の海が見える公園へ向かった。
傾いているとは言え、まだなお照りつける陽差しの中、海が一望出来る展望台に来た。
陽差しに焼かれて熱い、手すりのような柵に身体を預け、遠く海を眺める。
あまりの暑さのせいか、僕以外に誰もいない。そう。おかしなまでに。そう。予感を感じさせるほどに。
そして、その予感は当たった。
「……雁ヶ崎君?」
すっかり聞き慣れた声。振り向くと、はたして、燕原さんだった。
「こんなに暑いのに、物好きね?」
「そっちこそ」
軽口が自然に出てくる。二人の間の壁が、もうすっかりない事の表れだった。
彼女が、隣に来る。
黙って、水平線を眺める。
無言。
むしろ、今だけは言葉がいらなかった。
どれぐらい、そうしていただろう?
視線を海へ投げたまま、彼女から、口を開いた。
「ほんっとにさ、あたしってば、ひねくれてる自分が嫌になっちゃう」
「どういう面で?」
素朴に聞き返すと、少し、間が開く。でも、答えてくれた。照れ臭そうに。
「好きな相手にはね、真逆の態度を取っちゃうのよ。だから、ね?」
後は察してくれ、という雰囲気だった。けど、彼女の口から聞きたいと思ったのは、まだ臆病だった。
「それって?」
「こら、そーゆーのは女の子の口から言わせないの!」
怒るふりをする彼女。とても、愛おしかった。
「……あのさ、燕原さん」
「なあに?」
「僕に……資格はあるのかな?」
自分に、自信が持てなかった。だから聞いた。
「ふうん、ずいぶんとナンセンスなこと聞くのね。何? 試験でもあるの? 受からないと先に進めないわけ?」
彼女は、どこか呆れているようだった。少し、言い方が悪かったかも知れない。
「ごめん。確かにそうだよね。えーっと……」
困った。言うべき言葉は、ここで彼女の顔を見た瞬間から決まっているのに、なかなか出てこない。
ただ、多分初めて、彼女の顔を真っ直ぐに見つめられた。
彼女は、明らかに何かを期待している面持ちだった。
心臓が、口から飛び出そうだった。
隠れて、深く息を吸う。そして吐く。
一世一代の覚悟で、言った。
「僕は、燕原さんが好きだ。付き合ってくれないかな?」
「ダメ、やり直し」
「え、えぇっ!?」
ダメなのか!? と思って頭が真っ白になりかけたところへ、彼女が、ぽうっと頬を染めて言った。
「香苗、って、名前で呼んでよ。悠平君」
そ、そうか。そういうことか。じゃあ、仕切り直しだ。
「か、香苗ちゃん。僕は君が好きだ! つ、付き合ってくれないかな!?」
「……うん。喜んで」
名もなき花が慎ましくほころぶように、微笑む彼女。恋が成就した瞬間だった。
初めて、彼女と手を繋いだ。柔らかかった。女の子はこわれものだと、すぐに分かった。
手を繋いだまま、二人で海を眺めた。夕映えの水面が、虹色に輝いていた。それはまるで、僕達の明るい未来を暗示しているようだった。
このまま、時が止まればいいと思った。けど、そんな事は出来ない。ずうっと無言で海を眺めていると、僕のスマホに「いつ帰るの?」という、母さんからのLINEが入ってきた。それを見た香苗ちゃんが言う。
「あ、そうだ。あたしもリストに入れてよ?」
「もちろん」
ってことで、香苗ちゃんともLINEの連絡先を交換した。
「あのさ、悠平君。あたしね、重たい女になりたくないんだ。だから、あんまり肩に力入れないでね?」
「うん、努力するよ」
そして、その場はおしまいだった。でも、胸と手には、彼女の温もりが刻み込まれていた。
その時は、まだ知らなかった。この恋が、まったく予想もしない展開をたどる事なんて。
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