第5話 名状しがたい感情の中

 このあたりから、自分の中に明確な変化を感じることになる。


 翌日は、梅雨の中休みと言った感じの晴れだった。変化は、その日から現れた。

「おはようー」

 朝、教室に入って挨拶すると、他のクラスメイト達が挨拶を返してくれるのはいつも通りなんだけど、自分の席に着くと、笑顔の燕原さんが言った。

「おはよう」

「は?」

「……何よ、その反応は? あたし、フツーに挨拶しただけなのに?」

「あ、いや、ごめん? お、おはよう」

 能動的に燕原さんの方から挨拶されて、かなり戸惑ってしまった。裏表のない、いたって普通、むしろ笑顔の挨拶だっただけに、余計だ。


 頭の中を、昨日の風景がよぎる。

 あの、捨て猫に見せた、彼女の優しさが。

 同時に、過去に彼女から受けた、数多のイジメの記憶もよみがえる。

 二つは、どう考えてもイコールで結べない。もしかしたら、彼女は二重人格者なのか? なんて突飛な想像さえしてしまう。


 ただ……なんだろう? 彼女からの挨拶が、やけに胸に響いた。

 不思議な気分だった。恨んでいるはずの相手から、親しげに挨拶されて、どうして嬉しいんだ? まるっきりわけが分からない。

 結局、その胸のわだかまりは、かなりの間、心の中に居座ることになる。


 そんな複雑な思いなど、燕原さんが知るはずもない。彼女はいたって普通だった。

 三時間目、世界史の授業の時だった。始業のチャイムが鳴る寸前、彼女が言った。

「ねえ、雁ヶ崎君?」

「な、なに?」

「ごめん。あたし、世界史の教科書忘れて来ちゃったのよ。見せてくれない?」

「あ、う、うん?」

 ビクビクしながら、燕原さんと机をくっつけて、一冊の教科書を二人で見ることになった。


 ……なんだろう。周囲から、変な視線を感じる。いや、悪いそれじゃない。むしろ他の女子から、奇妙な温かさを感じるような? 何なんだ?


 それよりも、心は千々にかき乱されていた。

 何せ、燕原さんに限らず、女の子をこんな至近距離で見るのは、本当に初めてのことだ。

 燕原さんからは、ほのかに甘い香りがした。吐息すら甘やかなようだった。

 さらに時折、彼女が視線を向けてくる。まともに目を見られようはずがなくて、つい視線を逸らしてしまう。


 率直に言って、落ち着かなかった。先生の話なんか、前以上に右から左。ただただ、無性にドキドキした。

 彼女の視線。

 逸らす。

 また視線。

 ちらと見る。

 笑顔? なぜ?

 心臓が跳ねる。

 頭に血が上る。

 あれ?

 あれ??

 あれ???

「ありがと、助かったわ」

「……へ?」

「授業、終わったんだけど?」

「え、あ、う、あ、そ、そう?」

 思いっきりキョドりながら、燕原さんと机を離した。彼女はやっぱり、変に嬉しそうだった。


 その後、折に触れて、燕原さんのことを考えるようになっていた。

 一番端的に言えば、その気持ちは「ときめき」だろう。

 けど、同時に彼女は「敵」でもある。裏がないと言えるか? いや、でもその「裏」って何だ? 考えれば考えるほど、思考は混乱を極め、最後に浮かぶのは、やっぱり彼女の屈託のない笑顔だった。いつしか、通学カバンの中に、胃薬を忍ばせる必要はなくなっていた。

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