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 ネズミと会話してはいけない。そんな命令、大人の口から聞いた覚えはなかった。足元の彼、もしくは彼女とならば、会話できるのだ。

「こんにちは、ネズミさん。私の名前は……ごめんなさい、薬で忘れちゃって、思い出せない」

「君の名前は『二十九番』だよ。そこに住む二十九番目の人間。だから、二十九番」

 そんな些細なことで名前を決めてしまうなんて。なんだか美しさに欠けていると思った。

「前の人が気になるのかい? 名前は、たしか『十一番』だっけ。可哀想に。ここに来た時からずっと、ああして小石と戯れている。下水道中にコロコロ小石の音が響き渡って眠れやしないんだ」

 ネズミは、素早い動作で鉄格子を登ると、吊り下げられた電球の傘にピョンと飛び乗った。ゆら、ゆら。ブランコのように電球が揺れる。

「どうして、あなたはここに居るの?」

「そんなこと、分かりっこないさ。下水道と食堂のゴミ箱を往復する毎日に、一体なにを見出せって言うんだ。すべての物事に対して理由を求めようとする。人間たちの悪いクセ」

「ふうん、ずいぶんと賢いネズミね」

「賢いのは君のほうさ。どうして俺の言葉が分かる?」

「昔からこうなの。しっかりとした態度で目を合わせれば、どんな動物相手でもコミュニケーションをとることができるの」

「それじゃあ君は、こんがり焼けた七面鳥とも会話ができるのかい?」

 ネズミは体操選手のように体をひねりながら、ストンと地面に着地した。

「いじわるな質問。そうね、『いただきます』と手を合わせて感謝して頂けば、声が届かなくても命のコミュニケーションは取ることができるんじゃない?」

 宝石のようにクリクリ輝くネズミの瞳が、大きく揺れた。

「おもしろい! 下水道中の噂になるぞ。君の話術で、寝床を占領するガマガエルたちを追い払ってくれよ」

「無理ね。私には、自由がないから」

 ネズミは耳をだらんと垂らして、わざとらしく落ち込んだ。

「……でも、自由がないのは、大人の前だけでの話。ネズミと会話しちゃいけない、そんなこと大人の誰も言わなかった」

 私は、その場でしゃがみ込むと、鉄格子の隙間から人差し指を伸ばす。

「友達になってくれる?」

「もちろんさ。君は強い人間だ」

 ネズミは短い両手で私の人差し指を掴み、小さく上下に振る。ここへ来て初めて出来た友達だった。

「こっちへおいで」

「床にネズミ捕りを置いていないだろうな?」

 つるんと鉄格子のすき間を通り抜け私の部屋へやって来る。素早く部屋を駆け回り、クンクンと部屋の安全を確認すると、地べたに尻もちをつく。

「きれいな場所だな」

「壁は埃とカビに覆われていて、便器は薄茶色に汚れているというのに?」

「じき慣れるさ。君も一度、下水道で暮らしてみるといい。きれいの基準がぐっと下がるぞ」

「変なネズミね」

 なんだか、ネズミのふてぶてしい態度が可笑しく思えてきて、私はその場で腹を抱えて大笑いした。ネズミは笑い方を知らないらしく、私の真似をして不器用に腹を曲げチューと鳴いた。

「まずは自己紹介をしなくっちゃね。じゃあ、ネズミさんの好きな食べ物は?」

「食堂のよく冷えたバジル。君は?」

「ネズミバーガー」

「あっはっは。食材との会話は楽しんでいるかい?」

「冗談よ。本当に好きな食べ物は、手作りハンバーグ」

 コツコツ。薄暗い廊下に響く冷たい足音。大人だ。大人がこちらにやって来るのだ。

「どうした?」

 ネズミが目をぱちくりさせて心配そうにたずねる。

「シッ、大人が来る」

 冷たい足音が徐々に大きくなる。

 銀の棍棒を握った大人が目の前に現れた。大人は、部屋の扉の前でピタリと止まると、意味もなく私を睨みつける。

「二十九番、出ろ」

 ネズミが、私と会話をしていないことをアピールするため、前歯を出してネズミらしくチューチュー鳴いた。その姿が滑稽で、私はふたたび大笑いしてしまう。

「馬鹿にすんじゃねえ!」

 銀の棍棒が、勢いよく鉄格子を叩きつける。無表情を貫いていた鉄格子が、血のような火花を噴き出し、激しくその身を震わせる。音に驚いたネズミが、電光石火の勢いで鉄格子の向こう側へ走り去ってゆく。

「二十九番、出ろ」

 大人の命令に逆らう自由は、私には無かった。

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心臓のトピアリー 東島和希🍼🎀 @higasizima

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