屋台名物、選別スープ⁈ ③
「っ! いや、違うよ!! 全然私の問題……!」
「やっぱりそうじゃないか。なんだ? その腹について何かデリカシーに欠ける事でも言われたのか?」
「えっ……?」
絶妙に核心から離れた推測に、フィーネは冷静さを取り戻す。
まさかそんな兄のような発言をカイがするとでも思っているのだろうか。
フィーネは一瞬迷ったものの、むしろ兄の性格なら有り得るのでないかと思い始める。
(お兄ちゃんなら……それに……)
兄ならば『腹について』との言葉が表すものも、神継者の影響によるあの得体の知れぬ靄状の変化を差してはいない気がしてきた。
カイは突然の身体変化に困惑し、ショックを受けている人間にデリカシーのない言葉をかけられる人ではない。
そして、それくらいは長い付き合いのシリウスも感じているはずだ。
(それよりも私がスープの味がとか言い出したから……食欲がない、ダイエットを急に意識しているのか? 何かあったのだろう……からの、度々食事を作ってくれるカイに、健康の為に体型や食べる量について言われたんじゃないか……とか? ……お兄ちゃんの確認無しの飛躍理論なら十二分に有り得る)
押し黙るフィーネの背をシリウスは撫でる。
慰める仕草は優雅であり、穏やかな表情は慈愛の女神のよう。傍目から見れば恋人を慮る心優しき美丈夫だと思われるだろう。
しかし、贔屓目を抜きにしても美しい顔で続けられたそれは。
「気にするな。俺もカイも心の底からフィーネの健康を願っている。奴の事だ。大方、常日頃の食物の大量摂取から腹を壊すのではないかとの憂慮が、羞恥のあまりうまく言葉にならなかっただけだろう」
心の底からの善意で妹を慰める言葉。しかもカイの性格を理解し、(想像上のカイに対してではあるが)庇い援護まで。兄の精一杯の言葉ではあるのだろう。
なのに、手放しで有難いと思うまでに至らない。なぜだろう。やはりフィーネの性格が悪いのだろうか。
「ありがとうお兄ちゃん……でも、そんな事言われてないよ。大丈夫だよ。本当に」
「神獣の呼び出しは明日朝でも構わないだろう。カイと合流したら宿でゆっくり休むといい。縄の用意は俺たちがしておく」
「……縄? 縄はいいよ??」
縄はいい。神獣とは仲良くしたいのだ。縄では敵意しか伝わらない。
「わかった。ならば餌と檻か」
「檻もいいからね?! 布団とかで良いから! あとお兄ちゃんはカイに迷惑かけちゃだめだよ?」
「俺がカイに? 一度たりとも迷惑をかけた事などないだろう!」
不満げな兄にフィーネは苦笑。やがてそれも普段の笑顔へと変わる。
もしかしたら的外れな兄の考察は、場を和ます為の兄なりのジョークだったのかもしれない。
フィーネはカリカリに焼けたパンにスープの具を乗せ、口に入れた。よく煮込まれた豆と野菜が美味しい。選別との名とは逆に具材の食感は統一されており、食べごたえもある。パンにまぶされた香ばしい粉チーズの香りも食欲をそそる。
しかしいかんせん、ゆっくり食べていたせいで固めのパンも汁気を吸い、へにょへにょになりかけている。このままでは底に残った具をすくえるかどうか、危ういところだ。
もしかしたらシリウスが冗談にフィーネへの気遣いを込めたように。あえてのスプーン代わりのパンには、熱いうちに食べて欲しいという製作者の意図が込められているのかもしれない。
「美味いか?」
「うん! ありがとう。お兄ちゃん」
フィーネの顔も謎のスープも、手に負えぬほどの熱さは既になかった。代わりに浮かぶのは笑顔。フィーネだけでなく、シリウスの表情も緩む。
「これ、結構美味いな。今度カイに頼むか」
「もう。お兄ちゃんはカイに頼り過ぎだよ……」
フィーネはそこまで告げて口を噤む。
兄の結婚について、さりげなく聞く良い機会ではないかと思ったからだ。
「ところでお兄ちゃん。その、遅れてしまったんだけれど……今回のこと、本当にごめんなさい」
フィーネは半身をよじり、隣の兄へ頭を下げた。
「お義姉さん、怒っちゃったよね。もし良かったら私から謝罪と事情説明と、できないかな? この体が制御出来るまでは手紙になっちゃうし、私がしゃしゃり出て何ができる訳でもないけど……」
頭上の兄は言葉を失っている。
当事者でもないフィーネが出ていったところで手遅れかもしれない。それどころか、相手に既にその気がないならば余計こじれるだけだろう。
そのあたりは恋愛経験が皆無であり、相手の事も知らず、コミュニケーション能力に自信も無いフィーネには判断できない。
「でも、もしお兄ちゃんが大丈夫だと思うなら、不快にさせてしまった事だけは手紙で謝りたい。もしかしたら、事情を話して安全だってわかってもらえば、お兄ちゃんとの結婚だってもう一度……っ」
ぽん、と。大きな手がフィーネの頭に触れた。そのままその手はフィーネの髪をわしゃわしゃと撫でる。
見上げれば、世にも珍しい兄の微苦笑。頬は僅かに朱に染まっていた。
「謝罪は言いそうだ。彼女はその……だいぶあれだからな……」
照れ臭さを誤魔化すかのようにシリウスは瞳を閉じ、記憶を辿るようにぽつぽつと言葉を続ける。
「理性的と言うか、矛盾ない事象に対しては己の感情にあまり頓着しないと言うか。結婚が多少伸びたとして、俺との関係や気持ちに大差が出るとは思えないそうだ。ただ、めかしこんだお前に会えなかった事だけはひどくがっかりしていた……」
「そう、なの……?」
「ああ。彼女はあまり大多数ではない家庭環境で兄妹もいない。それが全ての理由ではないだろうが、お前の事を非常に好ましく思ってくれているのは本当だ」
乙女も羨むほどの滑らかさを持つシリウスの頬は僅かに赤い。
初めて見る表情に、フィーネは罪悪感も忘れて呆けてしまった。
「前に写真を見せた時も俺以上に興奮してたな。まあ。多少不安ではあるが、彼女は純粋で賢い人だ。お前を大事にしてくれる、信頼に値する人間である事だけは俺が保証する。今回の事も随分と……俺や結婚の事はこれっぽっちも気に留めず、お前の事が心配だ、仕事を代わるから休んですぐについて行ってやれ、旅費は足りるのか、薬は余分に持ったか、担当者の連絡先を複数知らせろ、お前の保証人にもすぐになれる……と」
早口でまくし立てると、兄は一息つく。
どうやら義姉は兄に負けず劣らず頭の回転が速く、適応力や包容力のある優しい人のようだ。そして想像よりもずっとずっと兄は義姉を信頼し、尊敬し、愛しているようでもある。
(嬉しいなぁ……)
フィーネの頬はさらに緩んでしまった。
十にも満たぬ兄が顔をひきつらながら呟いていた言葉。幼いフィーネには意味もわからず、ただ兄から笑顔を奪ったという記憶だけが残ったそれ――「くだらない。俺が愛想笑いし、一言二言気遣う声をかけただけで揺らぐのか。男も女も新たな恋だのなんだの、グリーンピースさえ入らない頭なんだな!」。
自身へと向けられる特定の好意や凝り固まった偏見と恐怖は、長年シリウスを苦しめてきた。
そんな兄が義姉と出会った事で、誰かを尊び慕い、心の底から愛せるようになったなんて。
しばらくグリーンピースや青豆スープが苦手となった甲斐もあるというものだ。
(へへへ……! お兄ちゃんが誰かに嫉妬まで……なんか新鮮だなぁ)
同時に、一度でも契約結婚を疑ってしまった自分を恥ずかしく思う。
照れたり、素直に義姉の人柄を敬ったり、些細な言葉を覚えていたり。様子を見るに、もしかしたら淡白なシリウスの方が義姉を慕い、交際へと発展したのかもしれない。
(お兄ちゃん、お義姉さんのこと大好きなんだなぁ。『俺や結婚の事はこれっぽっちも……』って、拗ねて子供みたい)
しかし。
「……ああ! 全く、フィーネの兄は俺だというのに!」
息を整え、続いた兄の言葉にフィーネは虚をつかれる。
(えっ……そ、そっち……? 兄の立場を奪われて悔しいって事?! あ、それとも照れ隠しかな?? ……まぁでも、良かった。嬉しいなぁ)
兎にも角にも、兄の婚姻の話が破談の方向に傾いていない事にフィーネは安堵する。
早く神獣を見つけ、制御方法を見つけたい。出来れば一人で生計を立てて生きていく方法も。そうすれば心配性な兄も安心して結婚し、家庭を築く事が出来るだろう。
「お兄ちゃん。ありがとう、ごめんなさい、私も会いたいですって。お義姉さんに伝えてくれる? あ、お手紙書いても大丈夫かな?」
「大丈夫だと思うが、念の為確認しよう」
「ありがとう。あとお兄ちゃんも……本当にいつもありがとう」
「……別に。俺がお前を構いたいと思って動いているだけだ……」
ぶっきらぼうな返しに笑うと、今度は両手で頭を撫でられる。犬の顎下を撫で回すような仕草は、妹に対して些か一般的とは言い難いが。そこにシリウスの深い愛情が込められていることだけは、フィーネにもわかっていた。
「フィーネ。彼女はその……わかっているかもしれないが、魔術師で研究者、しかも己で幸せを掴み取れる癖にわざわざ俺と生活したいと望むような変わり者だ。純粋な奇人だ。ただ誰が頼まずとも人の幸せを願い奔走し、やり遂げてしまう。強く、優し過ぎる女性だ」
「へへへ、うんうん」
「だから俺の予想が外れなければ、おそらく彼女にはすぐ会える。もし俺がいない時に出会った時はくれぐれも、くれぐれも驚かないように。心しておいてくれ」
「う……うん……」
シリウスは真顔で告げる。頬は既に赤くなく、眉間のしわも戻っている。
(もしかして最後のくだりは惚気じゃなかった……?)
フィーネはまたほんの少しだけ、義姉に会うのが不安になってきた。
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