第三章
41.「曖昧」
彼女はやはり今日も、変わり果てた姿でそこに寝ていた。
異様な形のそれは、果たして本当に生きているんだろうか。
……僕には自信が無かった。
変わった彼女を愛することはできるけれど、果たして僕に、この『責任』を果たすことは出来るんだろうか。
「しき」
彼女はそう言って、変わらず僕に微笑みかける。
******
**
白い天井。
……何でこんな所に居るんだっけ。
「しき?!」
聞き慣れた声からは、聞き慣れない言葉が聞こえて、ちょっとびっくりする。
「えっ……母さん?」
「良かった……しき、今お医者さん来るからね」
「……」
どうしたんだろう。
母さんが僕の事を『しき』って呼んで……
(……?)
あれ、……なんだかおかしい。
僕は確か……えっと……
「はーい、ちょっと大丈夫かな?」
「えっ……はい……」
「君、どうして病院に居るか分かる?」
「……えっ、と」
言われてみれば、何で僕、病院なんかに居るんだろう。
「階段かなんかから……落ちたとか……?」
僕がそう言うと、母さんは複雑な顔で、「でも、良かった……」と言った。
「えっ……うーん……」
なんだか記憶が曖昧だ。
全てが、夢の中だったみたいに。
……母さんが僕の事をしきって呼んでるのも、もしかして僕が忘れてるだけで、普通なのかも。
「とりあえず、早く帰って連絡……」
自分で言ってから思った。
……誰に?
「れい……ちゃん……」
えっと、れいちゃんって、誰だっけ……。
あっ、どうしよう、名前忘れそう、
「あのっ!紙!紙とペン、ください!」
「はぁ?」
「あっ、どうしよう……忘れそう……」
「しき?」
「母さん!れいちゃんって、」
僕が忘れかけた名前を伝えると、その場の空気が明らかに重くなる。
「……しき、しきにとってその子って何なの?」
「……えっ?」
「お母さん、あんまり刺激しては……」
「でも!だって……」
何をそんなに慌ててるんだろう。
れいちゃんって、誰……。
何で僕はこんなに……その人を覚えていたい?
「あっ……!」
「しき?!どうしたの?!」
「母さん!忘れちゃう!母さん!母さん!」
「し、しき……」
「あああっ!やだ……いやだっ!」
「……ちょっと鎮静剤打ちましょうか」
「しき!」
「ああああっ!」
薄れて行く。
あの子の名前が……。
****
「しきくん、大丈夫?」
「……」
「し……」
「名前……名前を、教えてください……」
「……」
「僕は……僕は忘れちゃダメなのに……」
「……」
「どうしよう、名前が……」
「しき!」
僕が必死で思い出そうとしていると、とうとう大きな声で母さんに名前を呼ばれる。
「しき、母さんの事分かる?」
「分かる……よ」
「……今夜は、家族皆で夕飯を食べる。……そして、思い出せないなら言わなくて良い。だから、……お願い。家族の中に戻って来て……」
家族の中に……。
じゃあ、あの子……は、家族じゃない?
……戻ってはいけない気がした。
でもそれ以上に、戻れって、大切な何かに言われてる気がした。
「……分かったよ」
……そうだ、そうに決まってる。
思い出せないなら、きっとそんなに大事なんかじゃ……。
「しき?……泣いてるの?」
「ぁっ……」
……いや、大切だ。
絶対に。
「ちょっと、頭がごちゃごちゃなだけ……」
僕は慌てて涙を拭う。
……そうだ。
これは、僕自身でゆっくり思い出せば良い。
そう考えると頭のぐちゃぐちゃも治まって、そのままぼーっとしているうちに、その日はいつの間にか夜になった。
「……」
「……お兄ちゃん」
「……」
目の前に立たれて、呼ばれて、……僕はやっとそれが自分の事だと気づいた。
「……さち、か」
「そうだよ」
……でも、さちってこんなやつだっけ。
さちってもっとこう、にこにこしてて、活発で……。
あれ、やっぱり僕の記憶……おかしくなっちゃったのかな。
「お兄ちゃん、……遅いよ」
「えっ?」
「さっちゃん!これ手伝って!」
「ん、」
さちは僕にそれだけ言って、母さんに呼ばれて行ってしまった。
……遅いって、何だろう。
「しき、やー、良く無事だったな!」
「お父さん!」
「あはは、良いじゃないか、なぁ?しき」
「父さん……?」
「お?何だ?……しき、僕の肉も食べて良いからなぁ」
……やっぱり、父さんもおかしい。
父さんって、こんなに喋る人じゃ……。
何で僕の記憶とここに居る僕の家族は『違う』んだ……?
「お兄ちゃん」
「な、に……」
混乱してる最中にさちに呼ばれて、ちょっとびっくりしてしまう。
「……後でちょっと話そう」
「うん……」
そんな僕達をよそに、父さんと母さんは喧嘩になりそうなくらい話しながら、僕のベッドを囲んでコンビニ弁当を広げる。
「しき、飲み物どれが良い?」
「えっ……じゃあ、これ」
僕はオレンジジュースを手に取って、一口飲んだ。
「……何か」
「ん?」
「いや……何でもない」
そのオレンジジュースを見ている時、何故か少し苦しいような締め付けられるような感覚になってしまい、慌てて弁当をかっ込む。
「お、しき、お腹空いてたのか?」
「いっぱい食べなさいねぇ」
「……」
父さんと母さんは、我が我がと言うように口々に話しかけてくる。
……でもその間、さちは何も喋らなかった。
「……うん」
やっぱり、僕が倒れてる間に……何かあったんだろうか。
元々こうだった訳無い。
だって……確かに僕は、そう思うから。
「ご馳走様。……お兄ちゃん、来て」
「えっ」
「きゃあっ!」
突如、そう言って立ち上がったさちに強く腕を引かれ、僕は咄嗟に力が入らなくてよろけてしまう。
母さんの悲鳴の後、間一髪で父さんが僕を支える。
「……早く」
さちはそれに、露骨に嫌そうな顔をした。
僕は頑張って立ち上がって着いていこうとするけれど、びっくりするほど足に力が入らない。
「……もう、」
さちはそう言って僕の腕をとり支えた。
「ごめん……」
僕が言っても、さちは何も言わなかった。
……ただ、
「しき」
「なに……?」
「ちゃんと食べるんだぞ」
「……うん」
倒れ込んだ時余程軽かったのか、父さんが凄く心配した。
……ほんとに、どうしちゃったんだろうな、僕は。
***
「お兄ちゃん」
僕が階段を登れなかったから、同じ階のもう電気の消えた空間に、二人で並んで座る。
「なに?」
「とりあえず、今どうなってるかだけ。……おれたちが変わっちゃったのはわかるでしょ?」
「……うん」
やっぱり変わってたんだ……って、自分の記憶がおかしい訳じゃない事に安心したのもつかの間、どうして変わってしまったのかがやっぱり気になって、急かすように近づく。
「っ……お兄ちゃん、ちょっと……」
「ん?」
「……ほんと、これからちゃんと食べてよ?怖いなぁ……」
「えっ、ごめん……」
そんなグロテスクな見た目になってるんだろうか。
暗くてよく見えない。
僕が自分の周りを見回していると、「とにかく!」と、さちは声を張り上げる。
「父さんさんと母さんが変わった原因は……本当は、おれにもあんまり分かんない」
「えっ……」
「でも、しきが居なくなった日からってのは確か」
「……?」
居なくなった?
僕が分からないでいるのを置いて、さちは話し続ける。
「おれが変わった様に見えるなら、それは二人が変わったから」
「つまり……?」
「……つまり今、多分お母さんは……お兄ちゃんの事ばっかり見てる。……おれの『カホゴ』とは違う感じで」
「……父さんは?」
「お父さんは……よく分かんないけど、良く喋る様になって、お母さんとよく喧嘩してる」
「……」
つまり、僕が原因で二人は表立って仲が悪くなった……って事か。
……でも一つ、分からない。
「お兄ちゃん、早く治して、早く帰ってきて。……家を元に戻して」
「そうしてあげたいけど……」
「……けど?」
「僕、何で今こうなってるか……記憶無くて……」
僕の一言に、さちは目を丸くして、「えっ、……記憶喪失?!」と言った。
僕は違うとも言えなくて、「部分的に……」と答える。
「まじか……それで……」
さちはしばらく頭を抱えて黙り込んだ後、「ごめん、おれは正直に言う」と言って、僕に向かって口を開いた。
「お兄ちゃんは崖から海に飛び込んで、……ギリギリ一命を取り留めた」
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