奥底

アゼル

Case1 12/30 PM17:00 芹沢貴之

ふざけんな。

芹沢(セリザワ)は悪態を頭の中で何度も繰り返しながら、夕方の日が傾く坂道を自転車で息を切らして登っていた。

恋人の美樹からの電話があったのはつい30分前。

仕事が早く終わり、帰宅した芹沢が家に入ると同時に携帯が鳴った。

「あ、タカユキ?ごめーん!化粧台に財布忘れたから、ちょっと持ってきてくれない?」

既に仕事で疲れていた芹沢は、電話越しの彼女の声と内容に深いため息をついた。自分で取りに帰れよ、と言うと、

「だってもう職場の最寄りまで来ちゃったんだもーん、取りに帰るのめんどくさいからはやくぅ!おーねーがーい!!」

美樹と付き合って半年。倦怠期と言うには少し早すぎるが、芹沢は美樹のそういった抜けたところに嫌気が差し始めていた。

夜職の美樹とはただえさえ顔を合わせる時間も少なくない上に、たまに連絡が来ると思えば彼女のウッカリに付き合わされる。

相手が誰であれ、何度も何度も付き合わされればたまったものでは無いだろう。

同棲しているという事実が無ければほっといても良かったが、こういう問題ほど放置すると面倒なことになる事はよく知っていた。美樹のような女になれば尚更だ。

そして帰退勤したばかりの体に鞭打って、芹沢は自分の自転車で彼女の職場へと漕ぎ出した。






そんな事を反芻していると坂道のてっぺんに到達した。傾斜のきつい登りとは違い、緩やかな下り道が眼下に広がっている。ここを下り、10分もすれば美樹の職場だ。

さて──


とペダルに力を込めたその時。






「おいで」







声がした。イヤホンをしていたのにも関わらず、はっきり聞こえたその声に思わず足を止めて周囲を見渡した。

周囲は古い建物が立ち並ぶ閑静な住宅街、人影は無い。既に夕日は建物の向こうに消え、街灯がぽつりぽつりと寝ぼけ眼を開けるように点灯しだしたが、まだ暗い。

(幻聴…?)

しかし幻聴と言うにはあまりにもハッキリ聞こえすぎている。

じっとその場で耳を凝らした。すぐ左のボロの一軒家に視線をやるが、人影はない。




やはり幻聴か。





そして足に再び力を込める。






「おいで」





今度は振り返らない。溢れる冷や汗をこめかみに感じながら下り坂を降り始めた。

冬のきりきりとした空気が剥き出しの顔に冷たく突き刺さるがそんな事は気にしていられない。

下り坂で勢いがついたスピードを、更にペダルを踏み込んで加速をつける。

はやく、早くここを抜け出さなければ──


ふと少し上に視線を投げた。数メートル先に民家に併設された、古いカーブミラーが見えた。そこに映るものに一瞬気を取られ急ブレーキをかける。

(…!!!)

最初はなにがうつっているのか分からなかった。だが目を凝らすと明らかに異様なものがそこにあった。


真っ黒な──いや、黒よりも深い黒い影が列を成してこちらを手招いている。目が無いはずなのに、手と思しきものは無いはずなのにこちらを見て、手招いているのがはっきりわかった。

恐怖のあまりカーブミラーの正面、映し出されている場所を見るが──そこには何もいなかった。


─鏡の中に、鏡だけに映る世界に何かがいる─

─それも俺を、俺を呼んで─


恐怖が爆発した。夕暮れ時の暗さに、理解できない者を見てしまった恐怖。

声にならない叫び声を上げてパニックになりながら、もつれる足を必死に回して下り坂を降りていく。

(あの、あのカーブミラーさえ越してしまえば…!!)


その時だった。

前輪がなにかに引っかかった。

明らかに異様な力で強制停止した自転車は前輪を中心に前へ一回転、芹沢は投げ出された。正面の民家の窓へ、一直線に体が飛んで──



その時彼は見た。

前輪を引き止めた者を。

黒い影法師が顔を出して芹沢の自転車の前輪を掴んでいるのを。

それはカーブミラーで見えた謎の黒い何か。

それは1人(人?)ではなく、数人で芹沢の自転車を持ち上げていた。彼は自転車ごと放り出された。

それがこちらを見て──黒い歯を──唇をひきつらせて──笑って──


激しい衝撃が全身を駆け巡り、視界はそこで途切れた。





後には静かな住宅街がそこにあるだけだった。

















どれくらい経っただろうか。

芹沢は意識を取り戻した。

体を起こすと辺りは真っ暗で、明かりもない。

ゆっくりと体を起こして体をまさぐる。

幸い、あれだけ勢いよく投げ出された割に外傷は無い、脳震盪で済んだようだ。

ガンガンする頭を必死に起こして、何が起こったのか記憶を辿る。

(美樹からの電話があって──それで──家を出て──それで──それで…?)

少しの間、考え込む。

そしてやっと気絶する前の最後の光景を思い出した。

思わず立ち上がり、辺りを見回す。

(そうだ、俺あの黒いやつらに…)

ゴクリと生唾を飲み込んで、暗い周囲を見回す。

(大丈夫、アイツらは居ない…)

一安心し、なんだったんだろうか、と首を捻って考え込む。

そしてふと気がついた。

街灯が灯っていない。

周囲は夜の暗さなのに街灯は一向に周囲を照らそとはしない。更に上を見上げた。見ると分厚い雲が流れているのが微かにわかる。

しかし地上がこれだけ暗いのに、切れ間には星すら見えない。

「なんなんだ…ここ…」

思わず声に出てしまった。

「俺が知ってる場所なのか…?いやそれは間違いない…でも…」

何かが違う。


やがて思考を巡らせてもどうにもならないな、という結論に行き着く。

「とりあえず歩くか…」

そう決心して歩き出したその時足元からコツン、と音がした。拾い上げるとそれは自転車に着いていた着脱式の電灯だった。どうやら放り出された時に無意識に掴んでいたらしい。

「そうだ!俺の自転車、自転、車、は…」

自転車を探そうと歩き出したその時。

足がなにかに絡め取られたのがわかった。

引き抜こうと思えば引き抜ける。

しかし嫌な予感が頭に押し寄せてくる。

息を吸い込む。

徐々に這い上がってくる。決心して下を見る──


視線の先には無数の手が蠢いていた。腕からまた腕が生え、小さくなると今度は指が無数に伸びている。更に同じような腕がどんどん地面から湧き、芹沢の体を包もうとゆっくり這い上がってきていた。

思わず悲鳴をあげて左手で振り払おうとした。だがその手をさらに黒い手が掴む。右手も掴まれてしまった。

まずい、どんどん這い上がって──

その時右手にまとわりついていた腕の群れが甲高い声を発して引いた。何かと思って見てみる。すると先程の自転車の電動が煌々と光っていた。どうやら腕の群れが押し寄せる圧でスイッチがついたらしい。

(光が苦手なのか─!)

ベタすぎるとは思ったが他に手は無い。光をゆっくりと左手、両足へと向けるとすぐに体は自由になった。

荒い呼吸を整える。心臓がバクバクと音を立て、またパニックになりそうになる。

「落ち着け、落ち着け、落ち着け──」

絶え間なく足元を照らし、真っ直ぐ前へ視線を直す。

「い、行けるところまで、行こう…きっと出口が…」



薄闇の中、1歩を踏み出す。

果てしない闇の中に、その背中は溶けて行き、やがて完全に見えなくなった。


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