帰りたい場所へ

篠岡遼佳

帰りたい場所へ



 手入れのされた森の中で、金色の長い髪が走っている。


 町への道ではなく、森の奥へ。

 下生えを突っ切り、肘も膝も枝葉に引っかけて、走っていく。


 広く落ち葉の積もった場所に出てきて、ようやく彼女は立ち止まった。


「――――」


 それを見上げる。

 大きな樹だ。大人が何人か手を繋げるくらいの直径がある。

 この樹だけは、どんなに寒い日が続いても葉を落とさない。

 魔法がかかっているのだ、というのが町でのもっぱらの噂だ。

 それは半分正解で、半分は間違いであると、彼女は知っている。


 それにしても、こんなところまで来てしまった。

 完全に迷子だ。

 この樹はどこからでも目立つけれど、間近に見るのは初めてだった。

 張りだした根の木肌を触りながら、腰を下ろせそうなところに座った。


 スカートは裾が少し破けていた。

 落ち着いてみると、なんだか腕と頬が痛い。手で汗を拭うと、ちょっと血がついた。

 走っているうちに引っかけたのだろう。それだけ、彼女は怒っていた。


 家を飛び出したのは、確かに悪いとは思っている。

 けれど、怒ったのだ。どうしても我慢ならなかったのだ。


「――もう知らない」


 誰にいうでもなく呟くと、なぜか視界が歪んだ。

 もう知らない、あんなひと。

 一緒になんて暮らすんじゃなかった。

 でもそんなこと最初からわかってた。

 わかってたのに。


 記憶がぽつぽつとよみがえっていく。


 ――魔法の森には魔法医がいる。

 魔法医は医術と魔法を使い、人々を癒やす。

 

 彼女が生まれ育った町の近くには、魔法の森があった。

 大きく実りの多い、虫も花も獣もいる森。


 町の人々は、魔法医を先生と呼ぶ。

 先生は古びた蔦の覆う家に住んでいた。

 そこそこ広いが、先生はほとんど明かりを灯さず、一本しかロウソクを使おうとしない。

 なのに、「診療室」には、熱くない「魔法の灯り」がいつでもついていた。

 ちぐはぐな行為に、なんで? と小さい頃に聞いたことがある。

 先生は、「魔法なんてそうそう使うものじゃないのさ」と言っていた。

 いま思うに、あれはロウソクをケチっていたのだと思う。


 先生は先生などと言われているが、割と俗っぽくてにこにこしていて、お酒も強くて、ごはんはあまり食べない。

 「コメが食べたいなあ」とたまにぼやいているが、この辺りで育つのは小麦である。そもそも、コメって何だろう、と彼女は思った。

 魔法出だせばいいのでは? そう聞いたこともある。

 「魔法にも制限があるんだよ」。いつものように「白衣」というものを着た先生は、そんなことを言った。

 それは、やっぱり半分正解で、半分ウソであった。


 先生は、周りの大人より背が高く、鍛えてもいないのに重たいものをたくさん持てる。

 先生は黒い髪に黒い瞳で、この辺りでは珍しい。

 先生は彼女にも、誰にも優しく、どんな話でも聞いてくれる。

 人が怪我をすれば、ホウキで飛んできて、助けてくれる。

 助からない命がある時は、本当に心から泣いてくれる。 

 本をよく読み、そして時々空を見上げては、どこかに思いを馳せている。

 

 悲しみより遠く、懐かしさよりも遠く、帰れない場所を想っているような瞳。

 その遠い瞳を、彼女は見つめ返したいと思った。

 辛いことを想うのなら、自分を見ればいい、と思った。

 つまり、恋をした。



 ――――「魔法」は特別なものにしか手にできない力である。

 自然の摂理を越えたものが手にする力である。

 それは、対価を払わされるものである。

 「魔法使い」は、ここではないところから来たものである――――。


 

 彼女の思いに、彼もいつしか気づいた。

 彼女の金の髪は美しく、湖水の瞳は聡明さをたたえていた。

 その視線に、彼もそっと応えた。

 


 魔法使いの秘密を聞かされて、彼女はいろいろなところに合点がいった。

 彼がどれだけ、故郷を想っているかは、彼女にはわからない。

 けれど、だったら、と彼女は告げた。

 ここを家にすればいい。

 そして私たちの家に、ここに帰ってくればいいと。




 木の根にしゃがみ込んだまま、彼女はほつれてしまったスカートの裾を見ていた。

 

 徐々に距離を縮めたふたりは、町の人々に祝福され、夫婦となった。

 けれど、いちばん美しく、いちばんすがすがしいと思ったあの朝さえ、かすんで色褪せていく。


 ――彼が、どうしても言ってくれない言葉が、ひとつだけある。

 それが、この迷子の理由だった。


 彼は対価を払わされ、この世界に来ている。

 命の半分はこの森と大樹だ。

 きっとすぐに気づいて飛んでくることはわかっている。 


 けれど、言わなくてもわかることなんてない。

 伝えるものは、言葉しかないのだから。




 伸ばした長い黒髪が、ふわりと彼女の前に降り立った。

 ――ほらね、もう見つかっちゃった。


 赤くなっているだろう目を見て欲しくなくて、彼女は膝を抱えてうつむいた。

 彼は、そっと彼女のそばにしゃがみ込む。



「ごめんね」

「ごめんじゃない、そんなのいらない」

「……そばにいるよ」

「いなきゃだめに決まってるじゃない」

「君が大事だ」

「私だって同じ」

「――――」



「好きだよ」

「知ってる」

「……」



 思ったことだけは色褪せない。

 思いが消えない。

 思いは、消えない。



「愛してる。一緒に帰ろう?」

「帰ったら、――なんて言ってくれる?」

「――――『ただいま』を、ちゃんと言うよ」







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帰りたい場所へ 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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