第10話
「お疲れ様、わたし」
静かになった室内で、数秒もすれば眠ってしまいそうだった美秋は陽炎のねぎらいで癒しから解放されてしまった。
「もう散らかさない。こまめに掃除する。質量持てよハウスダスト」
「代償が重い気付きだったね」
「ていうか、その言い方だとあんたも頑張ったみたいになってるけど、違うからね。実際はわたしだからね、全部やったの」
「わたしはわたしなんだから、わたしを褒めるならわたしって表すしかないでしょ」
「わたしわたしって紛らわしい。早口言葉じゃないんだから」
無価値な甲論乙駁であった。口を尖らせて体を起こした美秋は、ちょうど隣で同じように腰を下ろした陽炎を横目で改めて観察した。紺色のパーカー、鼠色のホットパンツ、そして琥珀色のカラーコンタクト……。ぼやけてこそいるが、やはり六年前の格好の自分がそこにいる。
美秋の自堕落な生活はひと月で終わりを迎えたが、その長い時間で彼女はまともに陽炎について考えたことがなかった。だから、いとまと安心が生まれた今この瞬間に興味が湧き、そもそもどうして現れたのか、どうして姿形が曖昧なのか、どうしてこうも婉曲的な言葉遣いなのか、それらを詳しく知ろうとした。
「あんたはいつまでそうしているの。まさかずっとわたしの邪魔するつもり?」
「わたしなんだから、好きなようにしたらいいじゃん。邪魔だと思うなら消せばいいし、その逆にいつまでもここにいて欲しいなら留めればいい。簡単でしょ」
「なにそれ、それでいいんだ」
「わたしだもん。いいとか悪いとか、わたしが決めなよ」
「ふぅん、そっか。まあ、いいんだけどね」
しかしながら、理外の理解とでも言うべきか、陽炎のことを知ろうとすればするほど根本的な部分で納得した気になってしまい、ろくな成果も得られていないのに美秋は問い詰めるのをやめにしてしまうのだ。これはこれからもずっとそうである。
「近いうちにわたしはわたしを要らなくなるよ」
蛍光灯による陰影のいたずらか、そう断定した陽炎は憂いのある表情になった。すぐさま美秋も申し訳ない気持ちになり視線を泳がせた。首筋辺りが痒くもなった。
「それまでわたしはいるから。さっさと別れられるといいね」
「わたしにしては悲しいこと言うね」
「捨てようとしても捨てれないものってあるじゃん。たとえば親に買ってもらった雑貨とか、さんざん居眠りしてた授業の教科書とか。でも、いざ思い切って捨ててみたら別に大したことないんだよ。すぐに忘れる。思い出ってそんなもんだよ」
「なんかそれ、あいつの受け売りじゃなかった?」
どのタイミングであいつが語ったのかは覚えていなかったが、大脳皮質で泡状に貯えられた記憶の欠片、そのひとつを使って美秋は陽炎の言葉に反応した。すると陽炎は彼女と向き合って、「そうかもしれないね」と微笑んだ。
「あれ、それも」と、美秋が陽炎に尋ねかけたその時である。ピコンと充電していたスマホが鳴り、一件のメッセージを受信した。
画面に表示されていたのは、『やっほー生きてる? よかったら食事どうかな?』という友人からの夕食の誘いであった。美秋は送り主を見て眉根を顰めた。
「いきなよ」
陽炎への返答も兼ねて美秋は友人に、『やだ』とだけ返信した。性格や言動が苦手な相手ではないのだが、むしろ仲睦まじかった数少ない友人であるが、現在のメンタルで行けば確実にズタボロにされるのが目に見えていたからだ。それにまだまだインスタント食品が余っているので、これを早くに処理したいのが本心であった。
一分と経たないうちに返信が返ってきた。
『奢るよ』
『いく!』
わずか三秒の出来事である。場所の地図や集合時刻も送られてきたので美秋はせわしなく玄関へ向かった。ごみ袋に躓いて危うく転びそうになっていた。タダ飯とあらば貧乏くさい思考を巡らせてはいられないのだ。その俊敏さは掃除の時のそれよりも勝っていた。
そんな季節の変わり目よりも不安定で、無邪気な子供のように単純な美秋を見て、緩んでいた陽炎の頬は引き攣った。
「シャワー浴びなよ」
既に片方の靴紐を結び終わっていた美秋は、ハッとして毛根に触れてその指を鼻に近付けてみた。漂ってきたのは汗と埃の混じった臭い、それだけである。
一重まぶたのふたり 湊 @Hokora
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