第9話
「だらしない、情けない。これがわたしの夢の結末とか、笑えない」
陽炎はしゃがんで美秋の頬に指を添え、顔の至るところへ持っていった。肌は冷たくざらついていて、髪はぼさぼさに伸び、墨汁を一滴垂らしただけの白紙のような瞳が二つ。色彩のなさが彼女のすべてだった。
「コンタクトやめちゃったんだ」
美秋の下まぶたを引っ張りながら陽炎は尋ねた。指摘通り、ほとんど毎日義務感で付けていた琥珀色のコンタクトを美秋はあの日以来一度も付けていなかった。いまだ洗浄液に浸したままである。とはいえ、今更付け直したところで何になるのか。そんな愚痴を零したくなった美秋は、淡い茶色を含んだ黒い瞳で陽炎を睨んだ。
「怒ってるんだ。へえ、そのくせメンタルはボロボロ」
陽炎は美秋の鼻を指で弾いて、「わたしってよくわからないね」と加えた。かたや美秋は睨むのにも疲れて体を倒した。その衝撃で舞った埃が細い陽光に照らされていた。
「とっくに気付いてるよね。これ以上は先がないんだって。劣等感とか、敗北感とか、非道な現実とか、そういうのからわたしはずーっと逃げ続けてたけどさ、もうここが限界なんだって。逃げたくても逃げられない場所まで来ちゃったんだよ」
「どっか行ってよ」
「よくもまあ、ここまで来れたね。我ながらすごいと思う。見てみなよ、あれだけ大事そうに抱えていたあいつの本も埃被っちゃってるよ」
「ねえ、いいから」
「よくないよ。これ全部わたしのことなんだから」
カッときて起き上がった美秋は陽炎に言い返そうとしたが、その反論がどれだけ自分を惨めにするか察した途端にうなだれて、「わたしはわたしがわからないんだよ」と呟いた。そんな彼女に触れるのを陽炎はためらった。
「それはわたしもわからない。けどさ、わからないならとりあえず後戻り戻してみなよ。ほら、忘れた直前の状況を再現すれば思い出せるでしょ。それと同じでさ、わたしが逃げたり諦めたりする前の環境に戻してみればいいんじゃない」
「それで何か変わると思う?」
「何もしないよりはマシでしょ。あと、そろそろ掃除したら」
美秋は黙り込んだ。陽炎の的確なアドバイスが鬱陶しかったからだ。昨日まで姿を現さなかったくせに、と彼女は心底むかむかしていた。だがこれは誤解であり無知の証明で、あの日から陽炎は常に美秋の側に存在していた。弱くなった本人が無意識に遮断していたのだ。
(自分に励まされるって、どんだけ追い込んでんだか)
口を噤んだ要因としてこういった純粋な苛立ちもあったので、なんだか色々なことが馬鹿らしくなってしまい、美秋は頭を掻きむしって窓際へと歩いて行った。
少し考えてから雨戸を開けると、慣れていた暗闇が膨大な量の光に飲まれ、思わず美秋は目を瞑った。そうして次に視界を確保した時、その瞳に映ったのはひどく散らかったゴミ屋敷のような室内であった。足の踏み場こそあれども、縛って放置されたビニール袋や、陳列もしくは転がる空き缶やペットボトルがそこかしこに見て取れる。また、あの昼間の天の川は流星群と化して床に直撃していた。
つい、「汚っ」と零してしまった美秋は壁に立てかけたままのギターを発見した。世界の音が消えてしまう感覚に陥った。陽炎の横を通り過ぎてそれに触れると、埃のコーティングに丸い指先の跡が残された。そこで彼女は息を吹きかけてみたが、さも当然にぶわっと埃が舞ったので咳とくしゃみを交互にした。陽炎は後ろで半笑いに呆れていた。
「そっか、この子は逃げなかったんだ」
くねった髪の毛の一本を引き千切った美秋は、それを握り締めて服の裾でギターの埃を丁寧に払った。
「忠犬みたいに扱うのやめなよ。これは逃げたくても逃げれなかっただけなんだから。わたしが買った時点で運命を引き受けたんだよ。で、責任とかあるの」
いつのまにか隣に移動していた陽炎は尋ねた。
「無機物に責任を? うん、確かにね、長期休暇は与えるべき」
「すっごい身勝手」
「そうだね、わたしのせいだからギターは悪くないよ。音を奏でるためだけに生まれてきたんだもん」
「まだ夢見心地」
「わからない。すっごいイライラしてたんだけど、ああ、なんかめんどくさい!」
発作でも起こしたみたく美秋は叫んだ。そこに陽炎が、「哲学者にでもなるつもり」と言おうとしたが、それよりも早く彼女は布団をたたみ始めた。専らそうしていたので、大小の埃が服にまとわり虫の卵のようであった。
「しばらくいるよ」
ごほごほと咳をしながら布団と悪戦苦闘する美秋に陽炎はそう告げた。よほど埃を嫌うのか、手を後ろに組んで徐々に端へと寄っている。
「あっそ。じゃあ手伝ってよ」
「こりゃあ、かなり時間かかりそうだね。ごみ捨ての曜日とか覚えてるの。可燃ごみと不燃ごみの違いわかるの。わたしはぶっちゃけ微妙。あ、掃除機買えばよかったね」
「うるさいなぁ!」
布団をたたみ終えた美秋は、次に散乱するごみの分別を始めた。とはいえインスタント食品で済ましていたことが功を奏し、これにはさほど労力をかけなかった。それでも煩わしかったのは陽炎の方で、あれやこれやと指示するくせに手伝いに関しては一切行わず、さらに美秋が思っても口にしなかった不満をさらっと口にしたのだ。
このようにして昔の自分に腹を立たせる不気味な感覚を味わいつつも(すっかり口癖はうるさいだ)、水に濡れたタオルで部屋の隅々まで拭いて綺麗にしたり、明朝に捨てる予定のゴミを玄関まで持って行ったり、高性能の掃除機の購入を真剣に悩んだりと、美秋は順調に事を勧めた。
すべてひとりでこなしたため、人を呼べる環境になった頃には日が暮れていた。ほとんどノンストップだったので疲労がどっと押し寄せてきて、美秋は「うん、おけ。しぬ」と言い残して床に伏した。
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