第二章 劣等感に苦しんでしまえよ
第8話
働かず、音楽にも触れず、塵労に疲れ果て、雨戸を閉めたままの部屋で目覚めた美秋は死人さながらの呻きを上げてスマホの電源を点けた。十一時二十七分、すっかり昼時である。
暖房はとうに切れており、布団に包まっているはずなのに美秋の肌は粟立っていた。二度寝を試みたが三十分を過ぎても一向に眠れそうになかったので、仕方なく布団から這い出た。
ふと、美秋はほんのわずかに開いた雨戸の隙間から差し込む陽光に照らされたハウスダストを見た。それがまるで昼間の天の川だったので、そっと手を伸ばして無限の星々を手に入れようとした。だが、人の手が近付くにつれてそれらは蜘蛛の子を散らすように離ればなれになってしまい、あるいはひとつでも得られたとしても淀んだ彼女の瞳に映るのは不確かな未来だけであった。
美秋はテーブルの上に置いてあるレジ袋から適当なインスタント食品(味噌バターラーメンだった)を取り出すと、昨夜かそれとも寝た朝方に沸かしておいたケトルの湯を注ぎ、飲みかけだったビールをぐいっと喉奥まで流し込んだ。
あれからひと月ほどが経過していた。終末世界のような室内で麵を啜る音だけが寂しく響く午後。美味いという感想はなかったし、腹が満たされた感覚も美秋にはなかった。だから、ただ生きるために、その意義はわからずとも、今日も今日とて生きるためだけに飯を喰らっていた。
それでも、ついさっき確認した今日の日付や時刻を美秋は忘れていた。なぜなら植物は時間を気にしない、彼女もそうだ。ラーメンのスープを一口も飲まずに布団の方へ戻ると、点けっぱなしのスマホを手に取って口座アプリを起動した。表示された数値を見てこれといった危機感や安堵を抱くことはなかった。しかし彼女は、「まだ」とだけ思った。
美秋は寝転がってしばらく天井を眺めた。そして耳を澄ませてみると、どこかの誰かが空高くへと打ち上げた硬球や、空き地か公園ではしゃぐ子供、ニュースキャスターの無機質な声など、ありふれた生活が聞こえてきた。再び彼女は、「まだ」とだけ思った。
美秋は思い出したかのようにスマホの画面を見た。その動作は非常にゆっくりであった。ゼロ件のメッセージ、四十パーセントの充電、変える気のないデフォルトの壁紙。彼女は検索ボックスに小笠旭と打ち込もうとした。が、それを断念した。このくだりは百回を優に超えていた。小笠と入力してもサジェストには小笠原諸島関連しか出てこず、それから先に挑むには普遍的な勇気が必要だった。彼女にそれはなかった。
今日はこれで仕舞にしよう。そう決意した美秋は不意に何者かの気配を感じて体を起こした。すぐ隣に小さな足があった。過眠症ゆえの金縛りに似た状態ではないかと彼女は疑ったが、そこにいたのは久しく忘れていた十七歳の自分、すなわち陽炎であった。
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