第7話
ああ、やっぱり。そう美秋は心の中で呟いた。頬杖をやめてソファーにもたれると、「嫌じゃなかったら言ってみて」と望んだ。
「さっき言ったように、いくつかの面白いアイデアは思いつくんだよ。寝る前とか、湯船に浸かっている時とか、休み時間中や授業中にポンとね。でも、いざそれをまとめてプロットを立ててみたら、果たしてこれは本当に俺が書きたい物語なのだろうかって考えてしまうんだよ」
美秋は髪の毛を指に巻き付けながら、「そんで」と促した。目線はしっかりと小笠の茶色い瞳の奥に据えられている。
「だってさ、瞬間的に何度も物語が思いつくということは類似の発想がたくさん後に控えているってことだろう。つまり使い捨ても同然なんだよ、瞬間的な物語なんて」
「それは違うと思う」
小笠の持論に若干の苛立ちを感じた美秋は険しい眼差しをもって彼を黙らせた。無から有を生み出す者同士、あるまじき発言を許せなかったのだ。ひと齧りだけしたポテトの断面を彼に向けて彼女もまた、自らの持論を展開していく。
「小笠の悩みのすべてをわたしは知らないけどさ、少なくとも何もしていない今のあんたじゃ作家なんて絶対無理だよ」。さらに続けて言うには、「瞬間的な発想は使い捨て? 馬鹿じゃないの。お先真っ暗でもきっとこれが糧になると信じてなんでも吸収していかないと、いつかは内側空っぽの弱々な人間になっちゃうよ。あと、使い捨てって表現が気に入らないからやめて。キャラと世界設定が可哀想」
まるで都合のいい殻に閉じこもっているだけの真珠。という比喩で美秋は持論を締めくくった。小笠は何も言い返せなかった。怒ってもいなかった。気まずい雰囲気が漂ってしまったが、構わず美秋は彼に追い打ちをかけるように声帯を震わせた。
「書け、読め、とにかくやれ。そういうことだよ。小笠はまだスタートラインにすら到達してないんだもん」
小笠はテーブルの木目を見て小刻みに頷くばかりだった。ところでオレンジジュースで喉を潤した美秋はあることが急に気になっていた。
「書き上げてないってことは書いてはいるの?」
「それはもちろん。けど、まあ、一万字もいってないんだ」喋っているうちに情けなくなった小笠は声がどんどん小さくなっていった。
頬張ったポテトを飲み込んだ美秋は、「じゃあ今度読ませてよ」と言って小笠にもポテトの皿を差し出した。
「いつかは誰かに見られるでしょ。その練習だよ、あとポテトのお礼」
「え、ええ? いいのかい? いや待ってくれ未完だぞ。構成もぐちゃぐちゃだし文章も拙いぜ。お目汚しにしかならないよ、うん、そうだ目に毒だ毒。ていうか、それってまた会ってくれるのか?」
ひどく動揺した小笠はこれでもかと自分の作品を否定した。頬が紅潮し、目がやや泳いでいる。どうやら取り付く島がないらしく、気を紛らわすためなのかポテトを五本も六本も貪り始めた。
「つまらないかどうかは読者次第。思考が一緒とか気持ち悪いよ」
「き、気持ち悪いだって? 俺がか?」
「なんでそうなるの」
美秋はこのままもうしばらく、慌てる小笠を観察してみたくなり、にわかに静かになって彼をじっと見つめた。のみならず、彼と目が合うとわざとらしくちょっと首を傾げてみたり、クスッと笑って「別に嫌ならいいよ」と意地悪になってみたりもした。
「いくら自分が満足していなくてもさ、他の人からすれば満足のいく出来ってのはあるもんだよ。てか、そもそも創作物って最終的な判断を下すのは自分じゃなくて大衆じゃん」
小笠は腕を組んで唸った。「そこが本当に悩ましいんだよ。書きたいものを書くのか、それとも読んで欲しいものを書くのか。世間一般的には後者を選ぶのが賢い選択なんだろうけど、ううん」
「わかった。んじゃ、わたしに読ませるのは小笠が書きたい物語でいいよ。その方が気楽でしょ」
「たしかにそうだがきみはそれで構わないのか?」
「読んですらないから良し悪しなんてわからないよ」
「火渡りをきみは好むのかい」
「すっげぇ話がぶっ飛んだ。とにかく本人がそれでいいって言ってるんだから大人しくお言葉に甘えなって。どうせ暇だし」
それでも小笠は遠慮がちな顔をしていたので、美秋は内心で優柔不断だなと呆れつつ指に付いたポテトの塩を舌で舐め取った。
「ひとつ例を挙げてみようか」
指の油分をテッシュで拭いていた美秋は、「あるところに自信のない女の子がいました。その女の子はとっても音楽が好きで、毎日のようにひとりで森の中で歌をうたっていました。小鳥さんも木の実さんも女の子には興味がありません。明くる日も明くる日もその女の子はひとりぼっちでした。そんなある日のことです、いつものように歌をうたっていた女の子のもとに、吟遊詩人の子供がやってきました。その子供は女の子の歌声に惹かれてここまできたのです。男の子は言いました、〈もっと歌を聞きたいな〉。すると女の子は、〈明日またここ来てね〉と言って森の奥に隠れてしまいました。はい、おしまい」と即興のストーリーを小笠に語った。彼は終始ぽかんとしていたが、これが何を意味するのかをわざわざ美秋が説明するまでもなかった。その証拠として彼女は既に席から立ち上がろうとしている。
「いつでもいいよ。来週だろうと来月だろうと、時間の許す限りなら」
ポテトを残して美秋は小笠に背を向けた。無地の紺色パーカーが遠ざかっていく。ほんの数秒だけ彼は手元の伝票を確認した。千円にも満たない奢りだったことを知ると、途端に彼は彼女に世話になってばかりだった過去の自分が愚かしくなった。
小笠は席から立ち上がって美秋を追った。すぐ追いついた、美秋もそれを望んでいた。小笠が彼女の腕を掴んで言うには、「聞こうと思ってたんだ」
「どうしてアカペラで歌っていたんだ? きみはなんのために歌っているんだ?」
これは小笠が一番初めに聞きたかった質問である。しかし人には話せない深い理由があるのかもしれないと考え、おいそれと言及できなかったのだ。それはひとえに、あの空間で彼女だけがまるで別の世界の住人のようだったからだ。
そんな幻想的な小笠の心配とは裏腹に、優しく彼の手を離した美秋はさも当たり前のようにこう答えた――
追憶はここで終わった。
見慣れた薄暗い部屋、月明かりは位置を変えて斜めになった枕を照らしている。小笠の姿はどこにもなく、ただその名だけが床に落ちた本の表紙に印刷されていた。時刻は三時を回っていたが、今さらカフェインが効いてきたのか美秋はちっとも眠くなかった。
すっかり慣れてしまった乾いたカラーコンタクトの痛み。美秋は指に髪を巻き付けてぼーっとしていた。すると、昔日の記憶が途切れる直前に小笠が投げてきたあの質問に、かつての自分がどのように答えたのかが徐々に鮮明になっていった。それゆえに美秋はたいへん己が馬鹿馬鹿しくなり、一切の感情が籠っていない笑いとも呼べぬ不気味な音が彼女の口から連なって零れた。
「そりゃ、そうだよ」
身勝手な過去の自分にも、本を拾うのすらも億劫になり、美秋はひたすらに夜明けを待った。その間に何度も目を瞑って過去に助けを求めようと試みたが、そのたびにあの陽炎が耳元に現れて、「また逃げるの」と囁き、遥か彼方にある安心への道のりに闖入してきた。
それにたとえ意志を貫いて眠れたとしても、もう二度と美秋のまぶたの裏側に過去の情景が浮かんでくることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます