第6話

 ひたすらに静寂。そこにいたのはやはり彼であった。したがって電子マネーのエラー音とともに改札の半ばで停止した美秋はきょとんとする他なかった。

 その場にいるすべての人々が彼の方を向いていた。すぐに興味をなくした者、いまだ興味をそそられている者、危ぶんで友人と耳打つ者と、各々の取る行動は様々で、それゆえに美秋の受ける共感性羞恥は耐え難きものであった。

(馬鹿なの⁉)

しかし彼は臆することなくやって来て、「これでお別れなんて悲しいじゃないか。まだきみの名前も聞いていないのに。頼むよ、二千円以内ならなんでも食べていいから!」

(よぅし馬鹿だ、こいつ馬鹿だ!)

 恥ずかしさで全身が熱くなってきた美秋は棒立ちのまま、ひとりそう確信した。密かに握った拳は震え、耳は赤く染まり、視線も彷徨っている。閉じた口の中で舌がものすごい勢いで暴れ回ってもいる。

「三千円でもいい、だから待ってくれ。行かないでくれ」

見よ、彼のひたむきな眼差しと、二人の関係を知らない者からすれば安っぽい恋愛ドラマの撮影か、あるいは遠く離れてしまう悲劇的な男女かと勘違いされそうな光景を。

彼が明らかに自分の返事を待っている態勢だと察した美秋は声にもならない声、すなわち「うえー」の発音に似た音を不本意にも緩んだ唇から漏らして惑い、そのまま数十秒が経過してから、いまだ瞬きすら忘れている彼の肩に手を乗せてこう言った。

「とりあえずどっか行こっか、ね」

 これを聞いた彼の表情は明るくなり、またやや赤くもなり、「やった。そうだね、そうしよう」と何度も首を振って過剰な喜びを表現してみせた。これにも美秋は途轍もない恥ずかしさを覚えたが、なんなら彼の一挙手一投足がそうかもしれないと思ったが、今ばかりは世間の目を最優先にするべきだと判断して、そして彼の保護者にでもなったつもりで硬く目を閉じた。

 かくして近くのファミレスに入ったふたりはそこでお互いの名を名乗った。

彼は小笠旭といった。適当に自己紹介を済ました美秋とは違い、小笠の方は自分の名前に使われている漢字がどれなのかをたとえ話を添えて懇切丁寧に教えた。いちいち話が長かったので、美秋からすれば鬱陶しいだけであったが、その一方でよくもそんなに言葉のバリエーションがあるな、と小笠の無尽蔵とも言うべき語彙に感心してもいた。このわけは彼が目指している夢に関係していた。

「へえ、作家志望」

「まだまだ未来は真っ暗だよ。なりたい意志はあるけど俺には色々なものが足りてないんだ」

「そうなの」

「そうとも。文章力、知識、文脈、環境、時間……ぜんぜん足りてない。ほら、よくあるじゃないか、世界観とか人物の設定が凝っている割にストーリーが薄味な作品。今の俺が書き始めたらこうなってしまうのは目に見えているんだよ」

「大変そうだね」

 ストローを噛み、けだるそうに頬杖をついて相槌を返していた美秋は、ふとガラスのコップが氷だけになっているのに気付いて、「なんでもいいから持ってきて」と頼んだ。かなり不躾な要求であったが、小笠は苦言ひとつ吐かずに席を立った。とはいえ彼の話にまったく関心がないわけではなく、美秋にも思うことがあった。

(こっちからすればあいつは充分に夢を追える状態なんだけどなぁ。普通に話し上手だし、あの様子じゃ本とか映画とか沢山観てるんだろうし。なんだか馬鹿にされてる気分。あれか、わたしは天才の悩みに直面しているのか。おい、凡人になにを求める気だ)

 おそれと不満を募らせていると、美秋のもとに山盛りのポテトフライが運ばれてきた。彼女の大好物だった。たったこれだけの出来事であるが、店員に礼を述べた美秋には心なしか物事に対する余裕が生まれたように見え、ポテトを一本つまみながらこのような結論に達した。

(奢ってもらうんだし、収穫ゼロで帰らせるのはやばいか)

 やがて旭がオレンジジュースをなみなみ注いで戻ってくると、彼が話を再開してしまう前に美秋は口火を切った。

「あのさ、思ったんだけどさ、小笠って短編でも長編でも何かしら書き上げたことあんの?」

「どうしたんだい藪から棒に。まさか、きみも書いてみたくなったとか」

「いいから、どうなん」

 なんの気なしに尋ねたのではなく、ちゃんとした意図があるからこそ美秋がこの問いを投げてきたことを即座に理解した小笠は、ひどく決まりが悪そうな顔をして鼻の辺りを手で覆った。美秋はじっと彼が答えるのを待った。

「……実は、まだ一作も書き上げていないんだ」


 

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