第5話
須々乃美秋と小笠旭の出会いは刺激的であった。
ある秋の夕暮れ時。十七歳の美秋はいつものように駅前広場のベンチに座って空を見上げ、一人静かに歌をうたっていた。ハスキーな彼女の歌声はたいへん魅力的であった。しかしその歌声は誰かに届くはずもなかった。というのも、彼女の声量は往来の喧騒にかき消されてしまうほどに小さかったのだ。
マイクもなく、楽器もなく、規模も情熱も欠けており、これを路上ライブと呼ぶにはあまりにも機材が足りず、おまけに囁くような小さな歌声。これではいくら美声であっても美秋の側を通りがかった人からすれば少々おかしな子に見えるかもしれない。が、当の本人はこれで満足だった。
そんな孤独の歌姫の黒い瞳に直上のオレンジ雲が映ると、彼女はあの空の向こうにある無限の星々と偉大なる太陽に胸を躍らせ、その興奮が冷めやらぬうちに中指でベンチを叩いてリズムを取り始めた。やがて足もバタバタと動かした。
周囲の視線や恥や外聞など、今の美秋におそれるものなどありはしなかった。そして、その調子のまま歌はラストサビに差し掛かったのだから、きっと絶好調のまま終われるだろうと彼女はぼんやり思ってもいた。
不意に美秋の歌声がピタリと止まった。
美しきものに疎い輩に邪魔立てされたのではない、自ら歌うのを止めたのだ。これらはひとえに困惑の表情を浮かべた彼女の視線の先、つまり真ん前にいる一人の少年が原因だった。
いつのまにか現れた天然パーマの少年が、どこの馬の骨とも知らぬその少年が、呆然と立ち尽くして涙を流し、美秋の歌を聴いていたのだ。
言葉を交わさず、お互いは三十秒ほど見合った。
「……あの、なんで泣いてるの?」
ハスキーな歌声からは想像し難い低い地声でおそるおそる美秋は尋ねた。
少年はハッとして口をパクパクさせていたが、ついに喋ることはなく、二度目の沈黙が彼らを包んだ。その間、美秋は彼の身なりを観察して学章の違いから同じ高校の生徒ではないと判断して胸を撫で下ろしていた。そもそも高校生かどうか不明であるが。
美秋は首を傾げて彼の茶色混じりの黒い瞳の奥を覗き込んだ。すると彼は慌てて目線を逸らして手で涙を拭った。二人の身長差はほとんどなく、これは美秋が同年代の女子よりも背が少し高かったからであった。
「……ごめん」
弱々しい声が彼の口から漏れたかと思うと、鼻水を啜って彼は踵を返した。背中が美秋の方に向けられた瞬間にも鼻を啜る音がして、それはともかく今度は美秋が慌て半分呆れ半分の声で彼を呼び止めようとした。
「え、ちょっと待って全然意味わかんないんですけど。なんで逃げる?」
それでも彼の足は進み出しており、「さようなら」と呟いて去ろうとした。そこで美秋も負けじと彼の腕を掴んで「いや、待てし」やや語気を強めた。
彼はビクッと震えて石像のように動かなくなってしまった。
美秋は彼の腕が小刻みに震え、さらにどんどん粟立っているのを感じ取っていたが、納得のいく解を得るまでその手を放そうとは考えていなかった。
「……ごめん」彼は繰り返し謝罪して、直後に「あ、ちが」と訂正しようとしたが舌を噛んでしまったらしく一人で悶えた。そんな彼に対し美秋は忙しい奴だな、と訝しみつつ思っていた。
三度目の沈黙が彼らの二分ほどを奪い去った。
顔を見なくともその緊張具合が充分に伝わった美秋は、どうもこちらが悪人になった気がしてならず、彼の腕から手を放すのではなく掴む力を弱めた。
「泣いたり謝ったり、んでもって謝ったり……変な奴」
美秋は特別罵るつもりはなかったのだが、このどストレートな感想に彼は大いに肩を落としてしまった。ブツブツと何か小言を言っているが、これらはすべて忸怩たる思いから生じた自らへの戒めであった。とどのつまり、「俺は馬鹿か」や「彼女の邪魔をしてしまったぞ」といった類の言葉である。
「やば、呪文唱えてる。やば、こわ」
美秋は苦笑いしているが、色々と不安定な彼に対して悪戯心が芽生えてきていた。それは単に彼女にとって異性と接触する機会は稀からであった。一方で、ひょっとしてこいつは変質者の手本なのでは? という恐怖心を抱いている節もあった。このようにおそれるのも、また異性と接触する機会が稀であるからだった。
「すまない……」
「言い方変えたね」
彼がほとんど懇願するように萎縮して言ったので、美秋はやや唇を尖らせて手を離した。彼から振り払ってくる勇気を期待していたから少し残念だったのだ。と、同時に彼女はなんでそんなくだらないことを望んでいたのかわからなくなってしまって、馬鹿馬鹿しくもなった。
すっかり頭が混乱してしまった美秋は溜め息をひとつ零して落ち着き、彼に別れを告げることもなく駅の方へ体を向けようとした。が、ほんのわずか思考を巡らせたのち、ひとまず感謝だけは述べておくことに決めた。
「ま、ありがとね。ちゃんと聴いてくれたのきみが初めてだし」
やにわに恥ずかしくなった美秋は握りこぶしで口元を覆った。我ながら臭いセリフを吐いてしまったな、と後悔したのだ。
反射的に振り返った彼はあっけらかんと美秋を見つめていた。美秋が咳払いをして視線を明後日の方向に逸らし、再び自分と見つめ合った頃になって彼はようやく先ほど感謝されたのだと悟った。涙はもうなかった。
「初めて。うん、初めてだよ、よかったね」よくねぇよ! と美秋は心中で叫んだ。
四度目の沈黙が支配したのは当然のごとく、ところで美秋は努めて冷静になって彼の肩を手の甲でポンと叩くと微笑んで、人混みに消えていった。
(明日も会えるかな?)
高架下の改札までの短い距離で美秋はふと考えた。
おっかなびっくりまともな会話は何ひとつなかったが、それでも彼が起伏のない自分の人生に新しい風を吹き込んでくれそうな予感がしていたのだ。まさに青天の霹靂。類稀なる異質な少年であったことは確かだが、明日も今日のように歌っていれば、あるいは……
そうして美秋が改札を通り抜けようとした刹那、忙しなく迫りくる何者かの気配。いや、足音を聞き、彼女が振り返る間もなく大袈裟な提案が駅構内に響き渡った。
「なあ、飯! 飯奢るよ!」
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