第4話

 自宅のドアのカギを開け、電気を点け、ギターケースとキャリングバッグを壁に立てかけたところで美秋は敷きっぱなしだった布団の上に倒れ込んだ。ピクリともしなかった。

次に美秋が意識すると、どうしたわけか電気が消えていて、街灯りと月明かりだけが室内の家具やらなんやらをぼんやりと映し出していた。

 あまりよろしくない唾液とコーヒーの匂いが鼻孔をつき、むくりと体を起こした美秋は呆然と室内を眺めた。まるで異世界に来てしまったかのような、あるいは夢の中のように意識がふわふわとしていてまともになれていなかった。腹の虫が鳴り、入浴もしていなかったのでやや臭い、それでも曲がった足が伸びることはなかった。

 美秋はギターケースに注目した。ありふれた黒色の誰もが知るメーカーのもので、アクセサリー類は一切付けておらず、上京して落ち着いた頃に買った腐れ縁だったが、今日でこれとも別れを告げなければならない。なるべく安く、なるべく長持ちで、なるべくシンプルなデザインのケースが欲しくて店という店を転々とし、ようやく出会えたあの日の喜びも、いつの間にか出来てショックを受けた傷や汚れも、記憶に新しいあの重みさえも、今日でさようならなのだ。

 小一時間も過ぎれば流石に意識がはっきりとしてきて、また、周りに目を遣る余裕も生まれて、美秋は枕の横に本屋の袋を発見した。彼女はすかさず小笠の本を取り出すと、おもむろに立ち上がって室内で一番明るい場所が窓辺であると知り、そこに腰を下ろした。

 それから彼女はしばらく読書に耽った。

 しかし、その『一重まぶたのふたり』を読み進めていくうちに美秋はじっとしていられなくなった。というのは時々苦悶の表情を浮かべたり、部屋中を不規則に歩き回ったり、過呼吸になって本を閉じたりしたのだ。かと思えば最初からじっくり読み返して「ううっ」と、喘いだり呻いたりもした。薬物のように本は彼女を蝕んでいったのだ。

 結局、読み終わる頃には夜も更けて、さらに美秋はぽろぽろと泣いていた。それはつまり物語の結末が悲しくて、かつ主人公とヒロインの関係が昔日の小笠と美秋に酷似していたからだった。だが、彼女は内容に涙したのではない。

(現実は無情で瞬間的で、ゴールへの道は茨ばかりで平坦ではなくて、それでもあいつは身を削って最後まで辿り着いた。でも、わたしは道半ばにして諦めた。わたしたち二人の道は横並びで、すぐ隣にあいつがいるんだって、そう思っていたのに、わたしの知らない間にあいつは遠くへ行っちゃってたんだ。不思議だなぁ。目指す場所は一緒だったのに)

そんな悲劇を実感して美秋はただ泣くことしかできなかったのだ。

 すっかり弱くなってしまった美秋はうなだれて、まもなくパサッという音とともに片手が軽くなるのを感じた。本を置こうと手を離した途端にカバーを残して中身がするりと落ちてしまったのだ。

美秋はそれを拾おうとしなかった。代わりに肌色の表紙を見つめ、印刷されたタイトルを伸びた爪の先で優しくなぞろうとした。しかしながら無情にも薄く痕が付いてしまい、もう前には戻れないと悟った彼女の涙は引いていった。

 ふと、手元の掴んだままのカバーに視線を移すと美秋はあることに気が付いた。

小笠はこの一冊しか出せていなかったのだ。売れなかったのか、それとも執筆中なのか、もしくは業界から追放されてしまったのか。いずれにせよこの気付きは美秋に「あいつらしい」と呟かせるほどの安心を与えた。が、すぐにそれも不安の種へと変わり果ててしまった。

(でも、あいつはこうして爪痕を残した。一冊、されど一冊。すごいなやっぱ。で、じゃあわたしは? 高望みの末路をしっかり辿ってますけど?)

「バッドエンドだなぁ!」

 叫び、カバーを投げてしまおうとしたが、そんな愚行を犯しはしなかった。きっと搾りかすの自重心が働いたのだろう。美秋は振り上げたその腕をゆっくりと収めると、もう片方の手で床に転がった中身を拾い上げて、その両方を抱きしめた。

 琥珀色の瞳を閉じ、首を傾けて頭を肩に乗せ、潤いを絶やさない涙だけが頬に線を引いているそのさまは、さながら血の涙を流す石膏像のようであった。

 かくして美秋は眠りについたが、彼女のまぶたの裏に映るのは真っ暗な闇ではなかった。すなわち六年前の儚くも素晴らしき時間、彼と過ごした青春の日々である。

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