第3話
いつも通りの朝、そう称してしまえばそれまでだが、美秋にとってのいつも通りの朝とはつらく苦しい要素の一つで、九時に設定した喧しいスマホのアラームで目覚めれば、まだ太陽は生きているんだ、と笑って哲学的なことを思ってみたり、逆に夜の間は導き見守っていてくれていた月が既に死んでしまって涙したりと、こちらもまた哲我的な悲しみに打ちひしがれたりと、要するにわざとまともじゃない思考を巡らせて生を実感していたのだ。
美秋の朝食は適当だった。食パン一枚の日もあれば、食べない日もあったし、気分次第で月並みの食事を作ったりもした。今日の場合はどちらにも分別できない微妙な質と量の朝食だったが、もしかするとこの〝例外〟から一日が始まったからこそ、あの悪夢が起こってしまったのかもしれない。
朝食を終えると今度は部屋の掃除を行い、潔癖症とまではいかなくとも宙を舞う埃や床に落ちた髪の毛がなくなる程度の清潔さを目指した。
それも済ますと今度は愛用のギターを念入りにチューニングして、さて今日はどの曲を歌おうかと『白紙』なる曲名の楽譜の束を探り始めた。シンガーソングライターゆえすべて一人でやらなければならないが、だからこそ丹精込めて作曲した、言わば我が子たちと接するのは美秋の唯一の楽しみだった。その証拠に、この選別だけで一時間近く費やしたのである。
美秋が家を出たのは十二時半ちょうどだった。これは偶然である。ほんのりと温かく、それでいて心地の良い涼しい風が吹きつける素晴らしい天気だったので、光合成する植物のようにうんと背伸びをしたり、近所のピアノ教室から聞こえるカノンに合わせて口笛を吹いてみたりと、明らかな上機嫌で最寄り駅まで足を運ばせていた。
駅に到着したのはこれまた偶然に一時ちょうどだった。平日ということで人影はまばらだったが、ここにいる人のすべてが未来のファンかもしれないと見て、美秋の機嫌はいっそうよくなっていった。
定位置である境界ブロックに腰を下ろすと、美秋はキャリングバッグからマイクやスタンド、スピーカーを取り出してセットし、背後のガードレールに寄りかかって再びギターのチューニングを始めた。そうしているうちに、往来の人々の足は自然止まっていた。もしくは速度を緩めていた。さらに「どんな歌なのか」「見たことある子だ」「CDないのかな」と、そんな言葉さえ耳に飛び込んできたので当人も心底驚いていた。というのも、上京して六年経つがこんなにも期待と好奇の視線が集まっているは初めてだったからだ。つまり須々乃美秋は名状しがたい幸福の抱擁を受けたていたのだ。
気が付けば小さな人だかりが出来ていた。おそらく人間としての性ゆえ駅から出てきた人々も無意識に興味を惹かれてやってきたのだろう。
相も変わらず美秋は満たされていたが、同時にぼんやりとした靄のような何かが体内に立ち込めているのを薄々感じ取ってもいた。だが決してそんな素振りは見せることなく、着々と準備を進めた。お膳立ては整っていた。あとはもう、いつものようにギターを弾いてマイクの前で歌うだけ……きっと、そうなるはずだった。
残酷な悪夢の始まりはすぐだった。まどろっこしい説明は一切省き、結論だけ先に言ってしまうと、歌おうとしたがまったく声が出なくなったのだ。
何も急に鼓膜が破れて聴覚を失ったわけではないし、とてつもない隕石が降ってきて人類が瞬く間に絶滅したとかそんなファンタジーな展開ではもちろんない。本当にただ、どれだけ振り絞っても歌声を出せなくなってしまったのだ。
それからのことは想像に難くないだろう。底の底まで落ちた信用度はそうそう回復しない。ひそかな憧れだったライブハウス出演は水泡となり、ひたむきに歌い続けても努力は実らず報われず、何にもなれず……
これを〝夢を諦めた〟と称さずしてなんと呼ぶというのだ?
まぶたを開けた美秋はふた口目のコーヒーを啜った。改善策など浮かぶはずもなく、数時間前に運命に見放された惨めな自分だけがありありと脳裏に浮かんだだけだった。
どうも取り付く島がなくなってしまった美秋は、手のひらを片目に押し当てて肘をつき、そのままじっと動かなくなった。眼球が優しく圧迫されて、すっかり楽になれるのだ。これは昔からの彼女の癖みたいなものである。弱くなった今はもう気休め程度にしかならないが。
ただ、この行為をした意味は何もあの悪夢を経験したからだけではない。もう一つ、むしろこちらの方が悪夢よりも難題かもしれないが、とにかくこの一つが非常にじんわりと美秋の心身を蝕んでいたからだ。すぐ脇にあるレジ袋、その中の例の本がそれである。
目から手を離すと片側の視界に広がる宇宙にゾッとして、それが収まらないうちに美秋は気でも狂ったかのように慌ただしくレジ袋をテーブルの上に置いた。呼吸は乱れに乱れ、指先も小刻みに震えていたが、彼女はどうにか正気を保って本を取り出した。頼み忘れたのでブックカバーはされていなかった。
そのせいで、真っ白な世界でこちらに背中を向けた男女が隣り合う表紙絵と、『一重まぶたのふたり』というタイトルが美秋の目に飛び込んできた。だが、美秋がもっとも恐れていたのはそこではない。この作品の作者である。つまり、タイトルの右下に印刷された小笠旭なる小説家のことだ。
同姓同名でもない限り、彼は高校生時代の美秋の旧友なのだ。
懐かしむような、恐れるような、そんな憂いの混じった表情で彼の名をしばらく見つめると、美秋はカップの中のコーヒーをだいぶ残したままに立ち上がり、たまたま目が合ったマスターに会釈をして喫茶店を出て行った。
美秋は再び肌寒い夜空の下を歩き始めた。今度こそ自宅を目指すつもりなのだ。とはいえ震えはいまだ治まらずにいた。が、体か脳のどこかで『一重まぶたのふたり』を読みたい欲が高まりつつあったので、これまでと比べれば幾ばくかはマシになっていた。
やがて美秋の住むマンションが目前まで迫ってきた。すると、こんな声が聞こえてくるのだった。
「また逃げたの」
幼く、高く、やや鼻声の、しかし聞き覚えがあり過ぎる声だった。背後からのそれに美秋は一度目こそ沈黙を貫き通したが、一分と経たないうちにまったく同じイントネーションで「また逃げたの」と言われて立ち止まり、ついに振り返った。
そこには陽炎のようにぼんやりとした少女があった。そして彼女は美秋だった。
今と違って淡いブラウンの髪の毛が短く切り揃えられているものの、なんなら服装も異なってはいるが、そのけだるそうな一重まぶたはまさしく須々乃美秋その人だった。
ドッペルゲンガーというふざけた幻想は露にも思わず、焦りもせず、むしろ美秋はそれについてのすべてをすんなりと理解した。が、彼女は静かに相手の琥珀色の瞳の奥を見つめるのみだった。
「そうして黙って変わらなくって、いつまでも子供のままでいて、逃げて、逃げて、逃げ続けて、わたしは恥ずかしくないの」
陽炎の言葉に美秋は反論しなかった。指摘されてなお、だんまりだったのだ。
「慰めてほしいんでしょ。他でもないあいつに。だらしないね、でも行けばいいじゃん。もう家に着くんだからさ、ほら、向こうは楽だよ」
陽炎は美秋の後ろの世界を指さしてかすかに口角を上げた。それに釣られて美秋も微笑みかけていたが、本人がそれに気付くことはなく、二秒経ってから陽炎の甘い言葉に従って踵を返そうとした。その時、不意に肺の空気が声帯を振動させた。
「ありがとね、色々と」
それから一つとして会話は生じず、静寂が支配する夜道に足音だけが響いた。マンションのエントランスにて美秋はちらりと後ろに目を遣ったが、もう陽炎はなかった。
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