第2話 

 しばらくの時間が経過した。あたりはすっかり暗くなり、肌寒くもなり、人口の光が街中を埋め尽くしていた。往来ではコートを羽織り、そそくさと帰宅するサラリーマンらが見受けられるのにもかかわらず、親の仕送りに甘えてアルバイトすらしていない美秋はどうにも家に帰る気力がなく、行く当てもなくあちらこちらと亡霊のように街中を徘徊し続け、こうして日が暮れた頃になってようやくある書店へと足を運ばせていた。

 自動ドアを抜けて、ほんのりと温かい暖房の風を受けてハッとして足を止めた美秋は、そもそもどうしてわたしはここに来たのだろう? と頭を捻らせた。そう、これは無意識に近い行動だったのだ。

彼女は周囲を見回したのちすぐさま踵を返そうとしたが、ほどなくして、もしかしたらここがわたしの居場所なのかもしれない、という謎の結論に至り奥へと進んでいった。レジに立つ若い店員が浮かべた呆れ顔は言うまでもないだろう。

 すぐ近くにあった雑誌やカタログ、分冊百科には目もくれず、ノンフィクションもの啓発本にライトノベルをも無視して美秋は純文学コーナーへと進んでいった。これは単に彼女がいずれのジャンルよりも純文学を好む傾向にあるからだが、それとは別に、純文学コーナーに近づくにつれて、まるでそこから引力が発生しているかのように彼女を掴んで離さなかったのだ。

 美秋は妙に興奮していた。頬は紅潮していたし、呼吸の間隔は短く、年配の客にギターケースがぶつかっても謝罪のひとつも述べず、見開いた目は最終地点だけを捉えて瞬きを忘れ、まだかまだかと、もどかしさが募っていた。

 すべての始まりは純文学コーナーの本棚の隅にみすぼらしく並べられていた。不思議なことに、平積みされている新刊や受賞作といった、およそ真っ先に万人が視界に捉えるであろう書籍よりも、美秋はこの一冊に意識が集中してしまった。が、これは仕方のないことだった。

「嘘……」

 書籍を手に取った美秋は思わず震え声でそう呟いた。しかしそんな衝撃も束の間に、それからの彼女の決断も行動も大変に素早かった。あらすじや値段を確認することもなく機械的に上着のポケットから財布を取り出すと、何も言わずに会計を済まして書店を後にして、暗くて寒い夜道をつかつかと進んでいったのだ。

しかしながら、行き先は自宅マンションではない。今の美秋にとって自宅よりも落ち着ける場所である。道すがら腕時計を確認して、まだ閉店時間まで二時間は優にあると知れた彼女はたちまち気味の悪い満足感に包まれたらしく、表情を綻ばせていた。が、喫茶店が近付くにつれて呼吸は荒くなっていたし、額に脂汗が滲んで見るからにつらそうであった。

 ふと、右手で握るレジ袋の中にあの本が入っているのを思い出すと「ひッ」とヒステリックな声を上げてアスファルトに落っことしてしまった。美秋は急いで拾い上げ、わなわなと震えながらセロハンテープを破いて本の状態を確認した。レジ袋こそ少し破けてしまっていたものの、幸か不幸か本には傷ひとつ付いていなかった。

(おかしくなっちゃったんだ、きっと!)

 道端にへたり込み、本を愛おしそうに抱き締めながら美秋は下唇を噛んだ。この時も彼女の横を通り過ぎる人々は誰ひとりとして救いの手を差し伸べることはしなかった。

 やがて美秋はひとけのない通りに出た。ここまで来るとほとんど孤独であり、すれ違うのは五人にも満たなかった、それゆえに彼女は幾ばくかの安心を得られた。チカチカ点滅する電灯と商店やアパート。どれもみな暗く、人の営みを感じられない。さながらゴーストタウンのような光景だが、たった一軒だけ光を発する店があった。

 まさしくそこが美秋の安息の地、上京当時から足しげく通っていた喫茶店『千日紅』である。

「いらっしゃい」

 ひどく疲れ果てていた美秋を迎えてくれたのは、薄暗く、がらんどうで、アンティークな内装と、ショパンの『別れの曲』のレコード、そして白い髭を生やしたトド似のマスターだった。彼は黙って定位置――入口にもっとも遠い窓際の席――に着いた美秋に一杯のコーヒーを持っていき、その後はオーダーを取ることもなくカウンターへ戻っていった。

 窓の外を眺めつつ、マスターの淹れてくれたコーヒーを喉に通すことで大きなため息を零した美秋は、そっとまぶたを閉じてこれからの色々にどうプラスに対処すべきか、と同時に元凶である数時間前の悪夢について振り返ることにした……


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