一重まぶたのふたり

第一章 もっと落ちてしまえよ

第1話


 須々乃美秋は夢を諦めた。

 その夢がなんだったのかは彼女自身にもわからなかったが、とにかくもう、これ以上は前に進めないと悟ったのだ。

 美しい秋の夕暮れに向かって三羽のカラスが飛んでいる。果てしない黄昏の空に羽ばたいていく彼らはどこへ向かっているのか、何を考えているのか、往来を行く人々の中にこうした豊かな心とほんのちょっとの余裕を持っている人間がいたのならば、そういった考察をするかもしれないが、残念ながら須々乃美秋がそんな素晴らしい思考を巡らせていることなどありえなかった。

 要するに、美秋はライブハウスの前で立ち尽くしていたのだ。二十分ほど経ってなお、彼女は動かず、ぼーっと店名である『Escalier』と書かれた看板を見つめていた。

 美秋の背後を通り過ぎていく人々は誰も彼も彼女に興味は示さず、それこそ本当に冷たい視線すらも向けることもなかった。もしかするとライブハウスの清掃員や同志たちが憐憫の情を抱いて慰めに来てくれるかもしれない、と美秋は心のどこかで期待していたのだが、至極当然にそんなことはあるはずもなく、そしてそれはひとえに彼女がまったく魅力のないシンガーソングライターだったことに帰結する。

 いたずらに時が過ぎていく。ようやく美秋も決心がついたのか、覚束ない足取りで帰路に就き始めた。

ややあって、前方からゲラゲラと笑う男女の声が聞こえてきた。

ちらとそちらに目を遣ると、それはもう楽しそうに青春を満喫する高校生集団であることが判明した。曙光のように眩い彼らに嫉妬したわけではないが、ただ背負うギターケースと握るキャリングバッグの重みだけを感じて生きていたかった美秋は反射的に俯いてぼんやりと笑った。

(ああ、駄目だ、何も見えないや。真っ暗。ぜんぶ真っ暗だ。呼吸とかちゃんとできてるのかな。頭がくらくらするし、心臓も押し潰されそう。でも、それってわたしのせいだし……ここで終わりか、わたしの夢。……へぇ、じゃあ夢って?)

 美秋は肺と心臓が圧迫される痛みに耐えて続けた。

(自分を否定することでしか本当の自分と向き合えないなんて、あまりにも惨め。惨めすぎる。ははっ、このままいっそ堕ちるとこまで堕ちてみようかな。それもそれで面白そう、刺激的なインスピレーションが浮かぶかもね……馬鹿?)

 自嘲気味なっていた美秋を現実に引き戻したのは、いつのまにか真っすぐ進んでいなかったらしく、それにより必然的に凶刃を向けてきた電信柱の足釘場だった。あと数秒遅ければ琥珀色のカラコンごと瞳を穿たれていただろう。さすがの美秋もこれに冷や汗をかき、頭皮がどんどん痒くなっていくのを感じた。

 一方で、何故気付いてしまったのだ、ともかすかに思った。

 とはいえこのアクシデントのおかげで彼女は冷静になり、ある一つの簡単な、けれども答えは永久に明かされないかもしれない問いかけをすることになった。

(わたし、どうして歌ってたんだろ……)

 俯くのをやめて、美秋はゆっくりオレンジ色の空を見上げた。もう、あのカラスたちはどこにもいなかった。

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