聖女と悪女

雨谷結子

聖女と悪女

 議場は紛糾していた。あの日と同じように。


 五年前。流行り病で王族が次々に急逝し、王家の青き血の継承者は、わたくしと妹王女が産み落とした王子だけになっていた。

 正教を奉じる王国では女は悪魔の門であり、男に罪を犯させ破滅させる魔性である。だから初代からわたくしの父たる先王の時代まで、女王が存在しない。

 だが諸侯は論争のすえ、王家存続の危機に魔性に玉座を明け渡すことを選んだ。

 わたくしはかりそめの戴冠をし、月の物がきたばかりだった妹はすぐさま新しい宰相と婚礼を挙げた。妹は丈夫な王子を生んだが、産褥熱のすえに死んだ。


 あれから五年の歳月がめぐり、わたくしは二十二になった。

 あのとき震えながら男たちの論争を議場の外で盗み聞きしていたわたくしも、今では彼らとともにこの円卓を囲んでいる。


「ワイラー公」


 わたくしの呼び声に、ずんぐりとした熊のような体格の少年が慌てた様子で背筋をぴんと伸ばす。その拍子に葡萄酒の並々と注がれた杯が倒れて、彼の服に染みをつくった。

 途端に円卓に忍び笑いが木霊する。

 痩せた北部を治めるワイラーは宮廷人らしい作法とは縁遠く、王の円卓に座ることを赦された諸侯のなかでは地位が低い。おまけに流行り病で戦上手な前当主を失っていて、跡継ぎの彼はまだ十八の少年ときている。


「備蓄の具合はどうなっている。冷夏の影響で王都ですら食糧事情は喫緊の課題だ。北部はなおのことだろう。冬になれば大雪で街道も閉ざされる。融通が必要なら、今申せ」

「ありがたき御言葉です。女王陛下」


 真っ赤な顔をしたワイラーは、円卓の天板に額を擦りつけんばかりの勢いで頭を下げる。


「お戯れを、女王陛下」


 これに異を唱えたのは、わたくしのすぐ隣に悠然と座した人物だった。洗練された着こなしに、優美な笑みをたたえた西部総督にして若き宰相。

 そしてわたくしの二回り年上の義弟でもあるオスカー・ハクスリーだ。


「あいにく、戯れで口にしてよい議題と考えてはおらぬのだがな。異論があるなら申せ」


宰相は畏れ多いとでも言いたげに目を伏せたが、すぐに慇懃無礼な青灰色の眼差しがわたくしを射抜いた。


「先ほど、食糧事情は喫緊の課題、と仰せになったのは陛下です。融通できる食糧がどこにありましょう。まこと、女王陛下はおやさしい。ですがその一時の憐れみで、国中を飢えさせるおつもりですか」


 失笑が重苦しい空気の垂れ込めた議場を渡っていく。

 これだから女に政はできぬ。何度も耳にした嘲りが、いくつもの笑声の裏に張りついている気がする。


「一割ならどうだ。それも、宮廷に持ち込まれる食糧にかぎって」


 宰相はいい加減苛立ちを隠せない様子で、骨ばった指で円卓を叩いた。


「なにを根拠に? 少なければよいというものではございません」

「根拠はある。王宮の食糧廃棄率は、年間で一割ほど。棄てられる公算の食糧を融通する」


 宰相は眉を跳ね上げた。


「それでは王国の威信が——それに王都の貧民は廃棄された食物で飢えをしのいで……」

「なんだ。分かっているのではないか。では、そのうち半分を救貧院に、半分を北部に提供すればよい。なにか意見のある者は?」


 宰相の蟀谷に青筋が浮かび、議場が静まり返る。

 東部総督が、今度は料理長を閨に連れこんだようだと宰相に囁くのが聞こえた。さすが悪女よ、誰かが追随しどっと議場が湧く。


 王冠がずんと重くなる。新月までの日数を数えて、わたくしはその場をやり過ごした。



 *



 月のない黒々とした夜の気配が近づいている。王都の中央に聳えるキンヴェイ大聖堂にはいまだ長蛇の列ができていた。

 正教の教会は、聖痕と呼ばれる神の啓示を受けた乙女を擁している。

 恩寵の乙女——人はこぞって聖女と呼ぶ。

 魔性たる女でありながら、穢れをもたない神の愛娘。聖堂に集う男たちは皆、彼女に逢いに来ているのだった。

 日没とともに聖女との面会時間は終わる。あの列に並んだ男たちはまた明日、この寒空の下並び直すことになりそうだった。


 わたくしは楽師の男に扮して、その様を白けた目で眺めながら、特別な許可証を示して聖堂に足を踏み入れる。

 聖女のおわす恩寵の庭には、最後の礼拝者が訪れていた。


「聖女様。私の罪をお赦しください。私は三日前の晩、娼婦を買いました。でもこんな時代ですから金が惜しくなって、そいつに金を払わず追いだそうとしたんです。そうしたらそいつが逆上して俺の腕を掴んできたので、振りほどこうと突き飛ばしたら——」


 男の声はそこで途切れる。代わりに、鈴を転がすような女の声がした。


「よく話してくれました。赦します。あなたの魂はきよめられた」


 聖女の声だ。

 質素と清貧そのものの貫頭衣に身を包み、髪はベールのうちに一筋残らずしまいこまれている。平凡だが愛らしい顔には、化粧っ気がなかった。

 これは、聖女が神の代行者として行う赦しの儀である。


 わたくしは唇を噛みしめる。

 その娼婦は、死んだか重傷を負うかしたのだろう。王国ではありふれたことだ。女は人間扱いされない。

 聖女の慈愛の笑みに感激して、新興商人風の男は恩寵の庭を出て行った。

 隠れていた物陰から姿を現す。聖女は驚いた様子もなくわたくしを見つめた。


「楽師さん。今宵も来てくださったのですね」


 先ほどと同じきよらかな声音にぞっと肌が粟立つ。

 興を削がれたのか、聖女は深いため息をつくと、「今日もよく働いたぁ」とのたまい、一気に服を脱ぎ捨てた。

 銀糸の髪が豊かに波打ち、薄べったくも曲線的な白い膚が篝火に照らされてしらじらと浮かび上がる。いくら同性の前とはいえ、恥じらいの欠片もない。

 ん、とねだるように手を差しだされる。仕方なしに鞄から要求のものを取りだせば、途端に聖女は鼻歌を歌いはじめた。


 聖女は慣れた様子で、きらびやかなドレスを纏う。

 わたくしが宰相や他の諸侯からしょっちゅう贈られるドレスのうち、袖を通していないもののひとつだった。

 聖女はそれだけでは満足せずに、手鏡を手に取って紅を刷いてみせる。


「飽きぬことだな。どこぞに出かけるわけでもあるまいに」

「あんたが持て余しているからあたしが有効活用してあげてるの。感謝なさいな」


 あくまでも尊大に聖女が口の端を上げる。

 言うまでもないが、この性根の曲がった女の姿こそが、聖女の本性である。


「だいたいあたしみたいな美女に、そんな襤褸切れ、似つかわしくないでしょ?」


 聖女は世俗の欲とは無縁の存在であるはずなのだが、彼女に正教の教義を説いたところで無駄なことだ。


 この奔放な聖女と出逢ったのは、十七のときだ。

 王冠を戴いて少しが経ったある新月の夜、勢いで王宮を抜けだしたわたくしは、新米聖女の元を訪れた。

 多分、はじめは好奇心と嫉妬からだった。穢れに満ちたわたくしとちがって、穢れをもたないという触れ込みの、きよらかな女。わたくしと正反対に皆から望まれ、愛され、その地位に就いた女の顔を拝んでやろうという一心だった。

 以来、こんな腐れ縁が続いている。

 聖女を穢さないために、教会は恩寵の庭への女の立ち入りを禁じている。

 無論、女王といえどこの世で最も穢れた女という触れ込みのわたくしも例外ではない。わたくしは夫のひとりすら持っていないのに、淫蕩の限りを尽くす悪女として悪名を轟かせていた。

 だから男装をして、聖女直筆の許可証を携え、楽師の振りをして出入りをしている。

 聖女は処女でなければ資格を失うという建前がある。

 聖女と親密な男の楽師など追いだされそうなものだが、キンヴェイ大聖堂には西部のユリエスタ大聖堂と長年聖女の所有をめぐって争っているという事情があった。

 キンヴェイは聖女の多少の我儘には目を瞑って不満を抑え込むことで、権威を維持しようという腹積もりなのだ。


「今日は面白い客がきたわよ」


 石造りの長椅子にだらしなく足を上げて、聖女が手遊びに花冠を作りながら囁く。彼女の癖だった。会うたび彼女は花を編んでいる。


「面白い客?」

「東部総督閣下」


 わたくしが目を見ひらけば、聖女は満足そうに月の色をした眸を細めた。


「此度はなにをやらかしたのだ?」

「そりゃ姦淫よ。決まってるでしょ」

「またか」


 東部総督ホーガンの女好きは言わずと知れたことだ。

 うんざりと吐き捨てつつも、握りしめた拳に爪が食い込む。


「相手、あんたんとこの侍女だって」


 唸り声が漏れる。当たりはすぐについた。数日前から様子のおかしい侍女がいたからだ。

 同じ下級貴族と結婚したばかりの娘だった。大方、東部総督が無理強いをしたのだろう。


「侍女に話を聞く」

「無駄でしょ。だって男に罪を犯させるのは女。欲を掻き立てた女が悪いんだから」


 じろりと睨みつければ、聖女は肩を竦める。


「女王のくせに、いちいち怒って馬鹿じゃないの」

「怒らなければ、それを認めたことになろう。怒りを愚かと断じるのは、その方が都合のよい者の言い分だ」

「あっそ。閣下に罰なんか与えられないわよ」

「そこまでできるとは考えておらぬ。侍女が望むなら、別の働き口を紹介してやろうと思ったまでだ」


 前に同じような経緯で東部総督と揉めた下女は、数日後遺体で発見された。今度はそんな悲劇は避けたい。

 俯くと、顔に突き刺さるような視線を感じた。

 しかしそちらを向けば、聖女はわたくしのことなど見ていなかったように目を逸らして、けらけらと笑い声を上げる。


「次の噂はこうね。男狂いの嫉妬深い女王様は、気にいらない女を王宮から追い出した」


 聖女がすらすらと口にした言葉に、鼻白む。諸侯たちが飛びつきそうな噂の種だ。

 聖女の口ぶりも気に喰わない。

 次の、ということは、この女はわたくしの悪い噂を蒐集して回っているらしい。


「わたくしの悪口で楽しんでいるようだな」

「やあね。聖女様のささやかな楽しみに水を差す気?」


 聖女は悪辣に笑った。聖女らしい顔よりよほど、その笑みは彼女にぴたりとそぐう。


「どこをどう見たら、あんたがそんなに世渡り上手の悪い女に見えるんだか」

「世渡り下手で悪かったな」

「世渡り下手だけど、わりに頭は回るもの。奴ら、あんたが怖いんでしょ。傀儡のお人形王子を育てるまでのお飾りのつもりだったのに、あんたが自分の頭で物を考えて話すようになっちゃったから。しかもそれが男に劣るはずの女だなんて認められない——だからあんたのやることなすこと、あんたの愛人の入れ知恵ってことにしたいんだわ」


 わたくしは肩を竦めた。

 聖女は世情というものをよく分かっている。


「聖女殿の方がよほど、為政者に向いていると見える」

「やーよ、そんな面倒。それにあたしが女王なら、あんたのお父様やお祖父様に倣うもの」


 父や祖父に倣う。つまり、大貴族たちの言いなりの傀儡の王になるということだ。

 わたくしが諸侯から忌み嫌われているのは、ただ女王ゆえではない。

 大貴族に盾突く女王だからだ。

 戴冠した当初はそれこそ聖女のようだと持て囃されていた。けれど議会で何度か発言するうちに、それは悪女という肩書に変わった。

 彼らに従順な女王であったなら、わたくしはきっと聖女として扱われたままだっただろう。

 だが、大貴族に盾突いたところで結果は同じだった。

 先日一度は認められた食糧の融通も、不作の影響で王宮に納める食糧の量が向こう半年減ると言われて立ち消えになった。そればかりか、わたくしに助力した料理長は、三日前に失踪した。

 こういうことは今回に限ったことではなかった。いつもそうだった。わたくしがこの五年で、女王として為したことはなにひとつとしてない。

 聖女ならもう少し上手くやるだろう。

 彼女は人を欺くのが上手い。

 とはいえ、たしかに彼女は女王というよりは——。


「……そなたは参謀向きと見える」

「んふふ、なら宰相閣下か。悪くないわね。聖女やってるとせっかく人の弱みを握り放題なのに、握ったところで使いどころがないんだもの。あたしが宰相になった暁には、脅して賺して一夜で巨万の富を築いてみせるわ」


 聖女はくつくつと笑う。彼女が今、脳裏でどんな邪悪な妄想を繰り広げているのかと思うとぞっとした。


「敵に回したくない女だな」

「あら、そうなったらあんたの下について、あんたの失態の尻拭いをしてあげるわよ」


 聖女らしくもない言葉に、意外な思いで目を瞬く。


「だって、仕えるならあんたくらい分かりやすいお馬鹿さんの方がやりやすいもの。味方とまで腹の探り合いしたくないじゃない?」


 にべもない言葉にわたくしは鼻白む。


「なーに。期待した? あたしがあんたに王様として惚れこんでるんじゃないかって? やーん、ご期待に沿えなくてごめんあそばせ」

「五月蠅い。調子に乗ったそなたほど煩わしいものはない」


 そう吐き捨てつつも、皮肉っぽい笑みが漏れる。

 この仮定の話がどれほど意味のないものか、互いに分かりすぎるほどに分かっている。

 恩寵の庭で従順な仮面をかぶり続ける聖女と、王宮でどれほど足掻こうと女王として認められないわたくし。

 おのれを生きられぬわたくしたちは、正反対のようでよく似ていた。


 *


 国境で小競り合いが起こっている。

 その一報が入ってきたのは、まだ雪も融けきる前の四月のことだった。

 北部と東部と国境を接する森の民、シャイユェン。角牛や銀狼、木々や湖沼や星々。それらを神として奉じ、異なる言葉を操る彼らは太古よりまつろわぬ民として、王国との関わりを避けて暮らしてきた。

 その彼らが、東の果ての砦ゲザロに夜襲を仕掛けてきたのだという。

 死傷者は十二人。“蛮族ごとき”にしてやられた東部総督ホーガンは火がついたように怒り狂っていて、時折入ってくる東部からの伝令に唾を飛ばして怒鳴り散らしていた。

 視野狭窄になっているホーガンは放っておくとして、わたくしは宰相に視線を向けた。


「オスカー。そなたはシャイユェンのこの無謀をどう見る」

「さて。前例がないのはたしかですな。或いは、我が国を脅威と思わなくなったか」


 そう言ってちらりとわたくしを一瞥する。女王に代替わりして森の民が王国を侮るようになったのでは、という本音が透けて見えた。

 皮肉に気づかない振りをして、ホーガンに目を向ける。


「ホーガン、そなた二年ほど前から森の民の土地の鉱石に目をつけていたな。よもや盗んだのではあるまいな」


 血走ったホーガンの目が泳ぎ、気まずい沈黙が横たわる。

 その答えは火を見るよりも明らかだった。


「盗んだのか」

「盗めなかったのだ! 奴らに見つかって。我が勢は事を荒立てずに引き返した。なのに、あの野蛮な猿どもめ」


 ホーガンは居直って、相手を非難し始める。

 呆れて物も言えなかったが、わたくしに彼を処罰する権限などなかったし、言い争いをしたところで仕方がない。


「東部と北部の守りを固めよ。ホーガン公。そなたはシャイユェンの族長と会談の準備を」

「俺に奴らに頭を下げろと!? あのような蛮族ども、この手で根絶やしにしてくれる」


 ホーガンは頭に血が上った様子で捲し立てる。

 簡単に言うが、攻め込むともなれば森は彼らの牙城だ。開戦すれば最終的には数で勝る王国に軍配が上がるだろうが、遊撃戦に持ち込まれて味方の損失も相当数出ることは目に見えている。


「そなたが頭を下げたくないのなら、わたくしが下げる。民を徒に傷つけることはない」

「陛下は我が国の威信を土につけるおつもりですかな。一国を預かる者としていかがかと」


 わたくしとホーガンの間に割って入ったのは宰相だ。

 分かってはいたことだが、どうやらホーガンの援護に回るらしい。


「わたくしがまた、憐れみゆえに大局を見誤っていると申すか」


 宰相は円卓を立ち上がってわたくしの元までやってくると、耳元に唇を寄せた。


「では、なにゆえ森の民の肩を持つのです。戦がおそろしいのでございましょう」


 いかにも無礼な態度だったが、それを咎める者はこの場にはいない。

 宰相はわたくしを宥めるようにその場に跪いて、恭しく手をとる。わたくしの指は図ったかのように震えだし、青灰色の眼差しに痛ましげな色が灯る。


「ほんの少し前まで、愛らしい姫君であらせられた御身です。かような荒事にお心を砕かれますな。泥にまみれ、血を浴びるのは我が役目。すべて私に委ねていただければ、勝利の栄誉を捧げるとお約束いたしましょう」


 宰相は熱っぽい目でわたくしを見上げる。

 宰相の妻——わたくしの妹が死んだ後も数多くの浮名を流しているこの男は、自分の使いどころというものをよく分かっている。今陥落すれば、この男は誰より上手くわたくしを慰めてくれるだろう。


 議場から見える窓の外は、星ひとつない闇に沈んでいた。襲撃騒動ですっかり忘れていたが、今宵は新月だ。


 初めて聖女に逢った晩、急ごしらえの男装をしたわたくしの正体はすぐに聖女の知るところとなった。

 彼女は助けを呼ぶどころか、わたくしを恐喝したが、結局は散々聖女の仕事の愚痴を言い、掏摸や売春をして暮らしてきたという驚きの身の上話まで話して聞かせた。


『初めは楽園かと思ったわ。清純ぶってにこにこ話を聞いてりゃ、おまんまが喰えるんだもの。酒癖の悪いクソ親父や兄さんに殴られることも、蛆虫どもに欲のはけ口にされたあげくに金を踏み倒されることもない。奪われ続けてきた人生が報われた。あたしはこれで人間になれるって神に感謝したわ。でも、』


 礼拝者たちが赦しを乞う罪は、彼女がそれまで受けてきた仕打ちによく似ていた。


『あたし、そいつらにあなたの罪を赦します。あなたの魂は浄められたって馬鹿みたいに繰り返すの。心のなかじゃ地獄に落ちろって罵りながらね。聖女だなんて大層なものになったら、なにか変わる、変えられると思ってた。でもなにも変わらない。ますます自分の無力さを思い知るだけよ。あたしは一生、あたしを生きられない。だけどあんたは』


 聖女はわたくしの胸倉を掴んだ。彼女の眸は燃えていた。

 羨望と憎悪と渇望を宿して、わたくしを一心に糾弾していた。


『あんたには、できることがある。力があるじゃない!』


 わたくしは名ばかりの女王だったが、それでも確かに王は王だった。

 それも王国が誕生して初めての、女の王だ。悪魔の門であり、男に罪を犯させる穢れた存在でしかなかった女が、初めて玉座に座ったのだ。

 そのことの意味を、聖女の眸はありありと語っていた。そしてわたくしに思いださせた。

 かつて、父王や母、兄王子たちに隠れて図書館から盗み出してきた書物を、夜な夜なか細い蝋燭の火で照らして読んだ日々を。

 幼き日、母にどうして女の子は王様になれないの、と尋ねたときの思いを。


 わたくしには、できることがある。そう心のうちで繰り返す。

 新月の夜のしるべが、わたくしをここまで連れてきてくれた。


「ひとつ、尋ねるが」

「なんなりと。女王陛下」

「もしホーガン公の窃盗未遂が外つ国にまで露見するようなことになれば、どうなる」


 宰相の眉間に皺が寄る。

 わたくしの固い声に、宰相はこの手の震えがどうやら恐れからきたものではないらしいということにようやく思い至ったようだった。


「この国を喰らおうと手ぐすねを引いている輩に、格好の材料を与えることになる。そうは思わぬか」


 誇りのために国を滅ぼすつもりか。

 言外の問いに、宰相の眸に怯えと怒りの綯交ぜになったような感情が閃いた。


「……卑しい森の民の言葉と我が国の言葉、外つ国がどちらを信じるかは、火を見るよりも明らかにございましょう」

「火のないところに煙は立たぬ。と、考える輩もいよう」


 この男は、愚かではない。

 父王が斃れてからの乱れた治世をわたくしの代わりに地ならししてまとめあげてきた手腕は、紛い物ではなかった。

 “愛らしい姫君”だったわたくしが、王冠を戴いてからそれに見合う振る舞いと度胸と智慧を物にするのに時を要しているように、国の要としてその身を賭してきた宰相にも時が必要なのだ。

 わたくしが王冠に足ると認めるには。


「オスカー。わたくしも役目を果たしたいのだ。そなたとともに、わたくしも泥にまみれ、血を浴びる覚悟でいる」


 だからどうか認めてくれ。祈るように願う。

 宰相の眸が揺らぐ。彼はそっと自身の手を引き戻すと視線を下に落とした。

 跪いたままの姿勢で顔には濃い翳が落ち、彼の考えを推し量ることはできない。

 やがて宰相は静かに口を開いた。


「陛下が懸念されているような事態にはなりえません」


 言い切られ、半信半疑で宰相を見つめた。

 彼は美しい所作で立ち上がり、優雅に微笑む。


「森の民の喉笛は、何事かを喚き散らす前に残らず切り裂いてご覧に入れましょう。ですから陛下。火も煙も立つ余地などないのです」


 ぞっとするような声音で言って、宰相は踵を返す。


「オスカー、それでは禍根が——オスカー!」


 わたくしの呼び声に、これきり宰相は振り向かなかった。


 こののち約二月、王国は森の民との間に干戈を交えることになる。

 わたくしは若き北部総督ワイラーが森の民の言語を操ることに望みをつなぎ、彼と共謀して戦を止めるべく、髪を切り、甲冑を纏って戦場を訪れた。

 だが、ワイラーは行軍中に原因不明の死を遂げ、王国の軍勢は味方の兵を二百以上失ったすえに森の民を殲滅した。

 帰路、東部総督麾下の馬には幾つもの鉱石が括りつけられていたが、それを咎める者はもはや誰もいなかった。


 *


 凱旋の宴が催されて間もない新月の夜。

 連日どんちゃん騒ぎが続く王宮とは打って変わって、恩寵の庭は心地よい静けさと薄闇に沈んでいた。


「女王様。あんた、今に殺されるわよ」


 久々の再会だというのに、開口一番聖女はそう言い放った。

 驚きはない。

 わたくしは妹王女の生んだ王太子に何かあったときの備えとして生かされていたに過ぎなかった。それが今では備えを残すよりも、邪魔な敵対勢力を排除する方に天秤が振れたまでのことだ。


「宰相に負けず劣らず情報通のそなたが言うのだから、そうなのだろうな」

「はあ!? そうなのだろうなってなに達観しちゃってんのよ。今すぐ降りりゃいいでしょ。奴らも白旗上げたお姫様を縊り殺すほど頭腐ってないわよ。次期国王様はまだたったの五つ。あんたを生かしとく価値は十分にある。宰相と結婚なさい。それが一番安全だわ」

「……気が進まぬ」


 聖女はわたくしが持参した手土産に見向きもせずに、胸倉を掴んだ。


「そりゃ妹の旦那だし、あんな顔しか取り柄のない厭らしい爺、あたしだって願い下げだけどね! 惚れた腫れたで駄々捏ねてられる段階は過ぎてんの。じゃなきゃ死ぬのよ!」

「聖女殿は案外、心配性だな」


 噴き出すと、聖女は青筋を浮かべて舌打ちをかました。

 そんな態度とは裏腹に、わたくしの胸倉を掴んでいた手がだらりと下がり、理知と激情を宿した月の眸がさざ波立つ。


「——あたしのせい?」


 その声は、横柄で自信に満ちた聖女のものとは思えないくらい、か細く震えていた。


「あたしが昔、女王様のことを焚きつけたから、意固地になってるの?」


 ——あんたには、できることがある。

 そう叫んだ聖女の苛烈な姿が瞼の裏に閃く。あの言葉を彼女自身もよく覚えているようだった。


「そなたのせいではない。あの言葉はもはやわたくしの血肉となった。ゆえに、まだなにも為せていないことが悔やまれてな」

「為せないわ! どうやったって為せない。あんたはね、女王だっていう時点で負けてるの。誰もあんた自身のことなんか見ない。たまに変わり者がいたからってなに? 女王様に協力した奴はみんなどうなった?」


 料理長やワイラー。十の指では数えきれないほどの友たちの無残な最期が走馬灯のように脳裏をよぎっていく。

 わたくしにできたのは、あの者たちを不幸にすることだけだった。


「いい加減分かったでしょ。あんたの智慧も才も全部無駄なの。なにもできないの。あんたがなにをやったって、認められない。あんたを焚きつけたあのときは、あたしは馬鹿な小娘でそのことが分かってなかった! なのにあんな言葉鵜呑みにして馬鹿じゃないの!?」


 聖女は大きな眸に涙を溜めて、がなり立ててる。

 この女がいくつもの罪の告白を澄ました顔で聞きながら、そしてそれを笑って赦してやりながらどれほどの怒りを抱えてきたのか、わたくしは知っている。


 この国の女たちは魔性として生まれる。

 そうでなければ、男たちから祭り上げられるきよらかで従順な聖女にしかなれない。

 悪女も聖女も、畢竟突きつめて考えれば、人間ではない。人間とはそのような一様で明快なものではない。

 いつかそれを女王が変えてくれるのではないか。聖女がそんな縋るような目でわたくしを盗み見ていたのも知っている。


 だからこそ、今の聖女の言葉は堪えた。

 わたくしを生かすための言葉だとは分かっていたが、この女にだけは、抗ってみせろと凄んでほしかった。

 それは、わたくしに宰相や諸侯たちと渡り合う力があることを彼女が認めていることに他ならなかったから。

 わたくしですらもはや、自分に何かを為せるとは思えなくなっていたのに、聖女がそれを疑ったことは一度もなかった。


「わたくしには、あの言葉こそが灯火だった」


 聖女の眸がこぼれんばかりに見ひらかれる。


「わたくしが女王でいられたのは、女王でいたいと願ったのは、そなたがわたくしを信じてくれたからだ」


 聖女の唇が震える。

 馬鹿よ、馬鹿じゃないの、大間抜けのこんこんちきよ、と悪口の洪水が溢れる。

 顔がくしゃくしゃになっているせいで、様にならない罵詈雑言だった。


「しかし、そなたの言うとおり潮時かもしれぬ。手を差し伸べてくれた者を、わたくしは地獄に追いやることしかできなかった。……オスカーは口説き落とせずじまいであったし」


 視線を落とせば、盛大な舌打ちが聞こえた。

 人が踏ん切りをつけようとしているのに、何故舌打ちなどされなければならないのか。この期に及んで、とんでもない女だ。


「あいつじゃあんたは手に余るわ」

「は?」

「あんなやつに認められる必要はないって言ってんの」


 聖女はわたくしの胸中など意に介さず、派手なドレスを身につけ、みずからに濃く化粧をほどこしはじめた。


「……そなた、なにをする気だ?」

「手始めに司教を脅すのよ。聖女が穢されたとなれば、キンヴェイ大聖堂の失態になる。この恰好で信者どもにあることないこと暴露されたくなけりゃ、女王を匿えとでも言ってやるわ」


 ぽかんと口をひらく。

 なにを言っているのだ、この女は。

 聖女は背伸びをして、わたくしの外套の頭巾を取り払うと、そこになにかをかぶせた。

 そっとなぞれば、瑞々しい茎と柔らかな花弁が指先に触れる。

 花冠だった。


「いつか、あたしがあんたをもう一度玉座に連れて行ってあげる」


 聖女は真っ向からわたくしを見つめた。

 月色の眸がしるべのように輝く。


「糞みたいな世界を、今度はあんたとあたし、二人で戦おうって言ってんの」


 いつかの新月の夜の夢物語。ありえない仮定の話。

 女王と女の宰相が立った国などついぞ聞いたことはない。だが。


「できないと思う?」


 聖女のその問いは、答えを欲してはいなかった。

 けれども、わたくしは口を開かずにはいられなかった。


「思わぬ。そなたほどの性悪、わたくしは他に知らぬのだから」


 わたくしの答えに、聖女の名を棄てた女は満足そうに喉を鳴らして、悪辣に笑った。

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