記憶の味
卯月小春
味覚と記憶と思い出
私には味覚がない。
いや、厳密にいうと甘味・塩味・酸味・苦味・辛味・渋味などがわからないのだ。
いわゆる味覚障害である。
味覚障害になったのは小学生のとき、両親を事故で亡くしたショックからだった。父は料理人で母はパティシエで、それまでの食生活は美味しさと愛に溢れていたように思う。
最低限生きるための栄養補給として食事をする、というのは最初の頃は苦痛で仕方がなかった。特に父が作ってくれた料理の味が鮮明なうちは、もう父の料理が食べられない悲しさと、目の前に用意されている食事の味がわからない苦しさで何度も嘔吐してしまったくらいだ。
だが現代にはサプリメントや栄養補助食品というものがある。それらは特化しているため、味を犠牲に量を最低限に必要な栄養素を摂取することができる。そして私はそれらに助けられて生きている。
* * *
「
「うん、16時まで。何かあった?」
私は大学生になっていた。親戚の家に引き取られてはいたが、一緒の食事ができずわざわざ別で用意してくれるような気遣いをしてくれるいい人たちにこれ以上迷惑をかけたくなく、大学に入ってから一人暮らしを始め、バイト代で生活をしていた。サプリメントのみで栄養面を整えるとなると、案外色々な種類を揃えなくてはならず、食費がかさむ。そのためバイトを詰めていることを友人である
尋ねると、よくぞ聞いてくれましたという表情でによっと口元が上がる。
「実はね、
ダメかな? と首を傾げてこちらを見る友希はとても可愛らしく、断ろうなんて気は出てこない。
「いいけど、お祝いなら飲んだり食べたりしたいんじゃない? 私……」
「うん、食べ物持ち寄る予定だけど涼花は無理しなくていいよ。もしつまみたいとかひと口食べたいとかそういうのあったら全然言って!」
「ん、わかった」
「それでなんだけどー……」
何やら歯切れが悪く、こちらをチラチラ伺うようにする。友希にしてはわりと珍しい態度だ。甘え上手というのか、明るく純真な友希はどちらかというとはっきり言葉に出すことがほとんどであまり言葉を濁したりすることはない。
「涼花のバイト先の近くにエトフってお店があるの知ってるかな? 陽光あそこのケーキがすっごくお気に入りみたいでね……バイト後に人数分買ってきてほしいの」
「買うのはいいけど、どんなケーキがいいとかお気に入りのケーキの名前とかわかるの?」
「ううん、涼花におまかせしたくって」
「おまかせって、そんなこと言われても味わかんないし」
「うん、でも陽光以外食べたことある人いないみたいだし、全部バラバラの種類を買えば問題ないと思うんだ」
確かにそういう状況なら誰が買っても同じかもしれない。はあ、とひとつため息をつく。
「……それで? いくつ買っていけばいいの?」
その言葉を聞いて友希は私に飛び付きながら「やったあ! 涼花大好き!」と叫んだ。
* * *
にしても、ケーキ屋に
バイトの帰り、私は例のケーキ屋に来ていた。気になったのは店名だ。友希に聞いたときはそこまで気にしていなかったけれど
ちらりと店内を覗くがしっかりと色とりどりのケーキ達が並んでいる。店を間違えているということはなさそうだった。
もしかして布の生地とお菓子の生地を間違えてるのか?
意を決し、扉を開けるとチリンチリンと音がなり、ふわりと甘い香りが漂った。
「いらっしゃい」
ここの店長だろうか。40代くらいのおじさんがニコリと営業スマイルを向けてきた。
「あの、おすすめのケーキを4種類、1つずつお願いします」
そう伝えるとおじさんは目をパチパチと瞬かせ、んーと考えたあと声をかけてきた。
「どういう目的用のケーキなんだい?」
「友達の内定のお祝いです。ここのケーキが好きみたいで。でも私は初めてなのでわかんないですし……」
「そうかい。でもそれなら友人のあんたが選んだほうがお友達は嬉しいんじゃない? わからなくても一生懸命自分のことを思って選んでくれたって気持ちがさ。プレゼントとかだってそうだろ?」
今度は私が目を瞬かせてしまった。その通りだった。友達のためと言いつつ、私は分からないからとこの人に丸投げしようとした。それが友達に対して不誠実だと、気持ちがこもっていないと言われたらその通りだ。
「まあ深く考えずに、各ケーキのプレートに名前と説明が書いてるからさ。まずはひととおり読んで、友達が好きそうなものを考えてみてから俺に頼るんでも遅くないと思うよ?」
ご尤も。分からなくてもまずは友達を思うことが大事だ。
私はショーケースの中のケーキのプレートを右から順番に読んでいく。抹茶のガトーショコラにオペラ、フレジエにサントノーレ……。
「ん、どうかした? 分からない説明があったなら、答えるけど」
「……いえ。私、皆の好み、1つも知らないんだなって」
私が食べられなくても、今日みたいに皆で集まり食事をしたことはある。何だったら大学にお菓子を持ってきて交換しながら食べあったりしている。ここの何々が好きだの、苦手だのと盛り上がるそんな光景を何度も見てきた。それなのに、私は食べられないしわからないからと、何ひとつ知ろうとしていなかった。それが当たり前になっていた自分に驚いた。
「知らないってことが分かったなら知っていけばいい。お互いが生きてる限り、遅すぎるなんてことはないさ」
ハッと顔をあげる。この人も、誰かを亡くした経験があるのだろうか。このくらいの年齢なら普通にあることなのだろうか。
「もしいなくなったとしても、その人を思って出来ることがあればその人の思いや気持ちを汲むことが出来るのなら、その人達はきっとあなたの中で生き続けていくよ」
その時、ふと1つのケーキプレートが目についた。
「ああ、それうちのスペシャリテ。ケーキって見た目と味に訴えかけることが多いんだけど、五感に訴えかけるケーキを作りたくて。名前がかおりなのは中でも特に嗅覚に訴えかけたかったから」
母と同じ名前のケーキだからだろうか。それともその5感に訴えるという説明に惹かれたからだろうか。
「すみません、このかおりと、あと……」
私はお願いされた数より1つ多くのケーキが入った箱を持ってお店を後にした。
* * *
男性は1つの写真に向かって話しかける。
男性と、男性より少し年上と思われる男女二人の3人が写っている写真だ。
「今日、
でも、全然ケーキを前にしても笑わなくて。そういうところは大違いですね。味覚障害だって伯母さまから伺っていたので、無理もないかもしれませんが」
男性は1つのケーキを口にしながら、言葉を続ける。
「菓織さん、貴女がこっそり教えてくれた夢のレシピ、受け継がせてもらいました。
味や見た目だけじゃない、香りや食感、すべてに訴えかける夢のケーキ。いくつか変更してはいますが……娘さん、そのケーキ買っていきましたよ。菓織さんの想い、きっと届きます」
涙を流すことはもうないが、男性の心には淡い恋心と慕う先輩のレシピを引き継ぐ強い気持ちがしっかりと刻み込まれていた。
* * *
遅くなってしまった。
予定の待ち合わせは17時だったが長針はすでに20分を示そうとしている。店を出た時点で遅くなると連絡は入れたものの、流石にケーキを買うだけでこの遅刻はありえない。
恐る恐るチャイムを押すと、ガチャリと静かにドアノブが開く音がした。
「涼花、お誕生日おめでとう〜っ!」
途端耳に響く大きな音と声。頭の中が真っ白になる。
……え、誕生日? 誰の? 内定のお祝いではなかっただろうか、実は陽光は誕生日だったのだろうか。
「涼花、騙してごめんなさい。でもどうしてもお祝いしたくて……」
「そもそも4年になってからお祝いっていうのがどうかとも思うんだけどね〜」
「
「最初に誕生日知って大騒ぎしたのは
「涼花、大丈夫?」
目の前で手を振り確認する陽光を見て、今度こそ理解した。この友人たちは4年の最後に知ってしまった誕生日にどうにかお祝いをしたくて、今まで祝えなかった分、サプライズという形で私をお祝いしようとしてくれたんだ。
本当に、暖かくてどうしようもない友人たちだ。
「そうだ、ケーキ」
「あ、ここのケーキ大好きなのは本当だよ。すごく美味しいんだけど最近行けてなくて……あれ、ケーキ5つある?」
箱を受け取り中身を確認した陽光が不思議そうに首を傾げる。こういうとき私は食べないのは皆知っているので私以外の人数分、4つを頼んだはずなのに5つあるのだ。
他の皆もどういうことだ? とこちらを見る。
「……あの、私も。食べてみたくて」
1つのケーキを指差すと、皆はとても嬉しそうにワッと騒ぎ出す。
「ほんと!?」
「じゃあ一緒に食べよ」
「もし食べきれなくても、残り食べる人いるし~」
「真実、それは誰のことかな?」
いつもと変わらないみんなの様子にくすりと笑みが漏れる。
「あ、あと皆の好み知らなくて……私なりにみんなをイメージして選んでみたの」
私は1つずつケーキを皿に取り分け、みんなの前に置いていく。
「友希はフレジエ。まっすぐで暖かいけどしっかり芯があって……このフレジエは真ん中に苺が埋め込まれてるの。
陽光はサントノーレ。しっかりしてて一つ一つを着実に積み重ねて、でもだめなことはしっかり言ってくれるキャラメルみたいなほろ苦さもある。
真実はスフレシトロンフロマージュ。ふわふわしてそうで……このスフレフロマージュも表面はふわふわしてるけど中身がしっとりして、レモンのソースが仕込んであるんだって。
心優はタルトミルティーユ。かっこよくて芯があって、でも実はちょっとおっちょこちょいで。少し傾けるとブルーベリーが転がり落ちてしまいそうなところが似てるなって。
どうかな……?」
全部伝えると皆は一度顔を見合わせてニヤッとする。
「それじゃあまずは涼花が選んだケーキ、実食しましょうか〜!」
先に感想はくれないらしい。私の前にはかおりが乗ったお皿が置かれる。今のところ嗅覚が刺激されることはない。
皆はひと口ずつケーキを口に運ぶ。
「美味しいけど、私はケーキならタルトが一番好きなんだ!」
次は覚えててねと友希は言う。
「わたしはケーキなら何でも好き!」
美味しそうに小さいシューを頬張るのは陽光だ。
「酸っぱいの実は苦手〜でもいちごは大好き」
だからちょーだい、と言い真実が友希のフレジエをつっつく。
「あたしもブルーベリーは好きなんだけどタルトが……」
上のブルーベリーとクリームを完食した上でタルト部分を友希に差し出す。
その光景を見てとても心が暖かくなる。好みを覚えていなかったのに皆食べた上で感想を述べてくれる。私に次があると言ってくれる。
本当にいい友人に恵まれた。
「あれ、涼花は食べないの?」
みんなケーキは食べ終わったようで残っているのは私の分だけだった。
「まぁ食べられなくても陽光が食べてくれるし~」
「食べてみたいと思えたならその気持ちが大事なんだから大丈夫だよ」
「まずは一口、あーんってしようか?」
丁重に断り、私はケーキを口に運ぶ。
ゴクリと、誰かの息を呑んだ音がした。
まずプチっと口の中で何かが弾けた。きっとグロゼイユかなにかだろう。ザクッと硬めの何かを噛んだがフレークだろうか。その後ふわっと鼻に抜ける花の香りがした。この香りは……。
「どう……?」
陽光がこちらを伺うように顔を覗いてくる。
「お母さんの、味だ……」
ポトリと1つ、雫が落ちる。
いや厳密に言うと味ではない。もし感じているこれが味ならば、きっとケーキらしい甘さや酸味などもわかっただろう。でもこれは私にとって母の味なのだ。
母が家でよく作ってくれた、記憶の味なのだ。
「涼花、味覚が……」
心優の言葉に首を振る。
「そうじゃ、ないんだけど、私、この味を知っている気がして……この香りが、お母さんが作ってくれたケーキを思い出すの」
きっとこれはラベンダーの香りだ。家でラベンダーの香りをケーキに取り入れたいと、ラベンダーのコンフィチュールから試作を何度もしていた母の姿を思い出す。
そういえば父も言っていた。──料理の美味しさは味だけではなく、誰とどこでどういう状況で食べるか、そして味覚以外の五感に訴えかけることでより記憶に強く残り、思い出の記憶の味になるのだ、と。それはきっと、こういうことだったのだ。
味が分からなくなってしまってから、誰かと食事を楽しむことやましてや香りや食感を楽しむことなんてなかった。
──けれど。
未だに味は分からないが、きっとこのケーキは甘くて……私の記憶の味なのだろう。そして思い出の味になるのだろう。
fin.
記憶の味 卯月小春 @Koharu_April
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