いつか、また

シンカー・ワン

春に想う


 ――春、それは別れの季節。


 卒業式が終わり、講堂から人の波があふれる。

 流れに乗って広い場所に出ると既にあちらこちらで別れの挨拶が交わされていた。

 式に来ていた家族と一時離れ、私も挨拶を交わすべく、かの人を探す。

 幸いな事にすぐに見つけられた。

 群衆の中でも、その細身の長身とトレードマークになっていた白衣は一際目立っていたから。

 確か式の間、白衣は着ていなかったはず。たぶん、講堂を出てから羽織ったのだろう。

 見つけ易くなっていた事をありがたいなと思う。

 先にその人と挨拶を交わしていた生徒たちが離れるのを見計らってから、背中へそっと声をかける。


桜井さくらい先生」

「――野上のがみくんか。卒業、おめでとう」

「はい、ありがとうございます」

 呼びかけに振り返り、厳しい印象を持つ顔を笑みに変え贈られる祝いの言葉に、私は一礼を持って返す。

「君のような生徒がいなくなると淋しくなるね」

「社交辞令でも嬉しいです」

「半分は本音だがね」

「なら、尚更嬉しいですね」

 こんな他愛のない会話を交わして笑いあう。

 少し前まではよくある日常だった、けれど明日からはそうではなくなる。

 そんな寂しさが、今日でこの学校から去って行く事を強く感じさせた。


 理科担当の桜井先生。

 きっちりと整えられたヘアースタイルに、細面で鋭いまなじりに気難しそうな口元、細身の長身に理科教諭である事を表わすかのような白衣がとてもよく似合う、この学校名物教師の代表格。

 外観から四角四面で厳しいだけの退屈な教え方をやりそうな印象なのに、その授業はとてもわかりやすく、また良く身に付き、何よりも知る事が面白く学ぶ事が楽しいといえるものだった。

 私は桜井先生の教え方が大好きだったので、わからないところの質問だとか、何かしら理由をつけては先生が常駐している理科準備室に入り浸っていた。

 先生の言っていた "君のような生徒" とはそういう事情からのものだろう。

 担任クラスを持たない桜井先生に、名と顔を覚えてもらうほどには親しくさせてもらっていた。 


「高校に行っても……君なら、まぁ大丈夫だろうね。しっかりやりなさい」

「はい、先生もお元気で」

「はは。幸い来年度もここに置いてもらえる事になったから、のんびりとやるよ。――じゃあ」

 他の生徒から先生を呼ぶ声が聞こえ、それを合図に私たちは会話を終わらせる。

 軽く手を上げて、私に背を向け、声をかけられた方向へと歩いていく先生。

 離れていく白衣の裾を思わず掴んでしまいそうになる。

 それを強い気持ちで押さえ込み、去っていく先生の背に今一度礼をする。

 "ありがとう" でもなく、"お元気で" でもなく、本当に伝えたかった言葉は、


 "お慕いしています"

 

 だけど、言葉には出来なかった。

 たかが十五の小娘が、口にしてよい言葉じゃない。

 言ったところで、三十半ばの大人の言葉で諭されるだけ。

 何より、先生は私をそういう対象として全然意識していない。

 それが悔しい。だから今は言わない。

 この気持ちが一時的な憧れか、それとも本物なのかどうか、今の私には言いきれるものではない。

 だけどこの先、桜井先生以上に、私の心を震わせる殿方が現れるのか? なんて事もわからない。

 だから、その日まで、この気持ちは残しておこう。

 "いました" と過去形ではなく、"います" の現在形なのは、そのためだ。


敏江としえーっ」

 母の呼ぶ声が聞こえる。

 私も先生に背を向けて、待たせていた家族の元へと歩き出す。

 さようなら先生。

 いつか、きっと、またお会いしましょう。 



 ――春、それはまた、はじまりの季節。

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